新連載第2弾!



文● 和田真帆  Maho Wada 美術ライター

■第4回ベルリンビエンナーレ
 会期
:2006年3月25日〜6月5日
(予定の会期5月28日から延長)
 会場:アウグスト通り(KW現代美術センター、旧郵便局の厩、教会、旧ユダヤ女学校、ダンスホール、ギャラリー、通りに置かれたコンテナ、個人住宅、墓地)


第五回(最終回) 

〈第4回ベルリンビエンナーレ〉

回帰的な設定がかえって意識させたもの(後編)

和田真帆(わだ まほ)
1970年生まれ 千葉県出身。武蔵野美術大学短期大学部空間デザイン科卒業。92年〜ドイツ在住。ベルリンフンボルト大学演劇学科、ベルリン自由大学美術史科修士課程修了。2005年秋、ドイツのAVINUS出版社から北野武映画論『Stille und Gewalt (静寂と暴力)』を出版。
現在は美術家・原高史の"signs of memory"プロジェクト運営を担当し、ドイツと日本を拠点に活動。。

第一回
第二回

第三回
第四回
第5回 (2006年)9月15日








“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター






























“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター

































“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター





■“ベルリン・(オルタナティブ)アート”は姿を消したということを再認識

 壁崩壊後のベルリン・アートの中心がこのミッテ区であったのは、旧東ベルリンのミッテ区が統一後のベルリンにおいて地理的に中心に位置し、また所有権が明らかでない空き家や廃墟などをタダ同然で借りることができたからだ。しかしそれだけではない。歴史的背景から見てもそれは必然的であったのではないか。

 ベルリンが担ってきた、重く、暗い政治的、歴史的背景を、旧東ベルリンに位置し、かつてはユダヤ人が多く住み、東ドイツ時代は政府に置き去りにされ寂れた場所であったミッテ区において、その歴史の痕跡を強く感じ取ることができるからだ。

 90年代初頭、ベルリン・オルタナティブ・アートの立役者であるクラウス・ビーゼンバッハを中心に若いアート関係者が集まり、アウグスト通りの朽ちた元マーガリン工場をオルタナティブなアートスペース“KW(クンスト・ヴェルケ)”とし、精力的な活動を開始した。

 連載第二回目にも記述したが、92年には<documenta 9>に合わせ、ビーゼンバッハを中心にアウグスト通りで空き家の37部屋を利用した展覧会<37Raume>が開催された。当時はまだアーティスト以外は人が寄り付かないような寂れた場所であったアウグスト通りで2万人の来場者を記録した、伝説の展覧会だ。

 第1回目ベルリンビエンナーレは、この流れを受けて1998年にビーゼンバッハ指揮の下ベルリン・ミッテのKW、旧郵便局をメイン会場にスタートした(正確には第1回目は1998年から2000年の2年間断続的に開催)。ベルリンビエンナーレの特徴は、オルタナティブなところからスタートし、ベルリンという都市の持つその特異性を強調して行われてきた、という点だ。
アウグスト通り

 壁崩壊後、多くのアーティストが空き家を占拠し、活動していた90年代。この時代は、ベルリンという都市の持つ歴史の痕跡と都市の発展、再生がアートに反映されていた。そして90年代後半このアウグスト通りを中心にベルリンのアートシーンは発展していったのだ。

 しかしベルリンのアートシーンは、ここ数年で確実にミッテ区以外に広がり拡散された。またかつてのように、ベルリン・ミッテ区へ行けば最新のベルリンアートシーンが見られる(体感できる)というのは一昔前の話になるのだろう。実験的、ノンコマーシャルなギャラリーが数多く点在していたミッテ区のギャラリー界隈も、月日の流れと共に、また地価の高騰という現実的な問題もあり、コマーシャルに方向転換するギャラリーも多い(連載第二回でインタビューしたノバック氏のDNAギャラリーはその典型ともいえるだろう)。



 今回、ベルリンビエンナーレがこのアウグスト通りで行われるということに私は特別な興味を持っていた。前回2004年に行われた〈第3回ベルリン・ビエンナーレ〉開催と同時期に、私はアウグスト通りで住民を巻き込んでのアートプロジェクト“Signs of Memory Projekt”(アーティスト:原 高史)に携わっていた。この通りに住む住民、または働く人々、関わる人々をインタビューし、特徴ある言葉を選び出し、その言葉と、その言葉から原がイメージした絵を住民と共同でパネルに描き、そのパネルをそれぞれの窓に設置するというものだ。

 当時長らく空き家となって、立ち入り禁止となっていたユダヤ教区の所有の建物3棟(今回のビエンナーレで会場となってる旧ユダヤ女学校だけではなく、計3棟空き家となって並んでいる。)の使用許可が、警備員の監視の下という条件付きで下りた。

 その内の一つである旧ユダヤ孤児院の院長を曾伯母に持つイスラエル人映画監督、また旧東ドイツ時代にこの旧ユダヤ女学校であった高等学校に通っていた小説家の言葉をこれらの建物の窓から発することができた。

 時代に翻弄されたこの建物の歴史――ナチスの時代、ユダヤ人を含む多くの人々がここから強制収容所へと送り込まれた歴史を持つ。しかし大戦後の社会主義国時代、それまでの歴史を全く封印されて高等学校として存在していた。しかし時代が移り、歴史は再び明らかになる。そして壁崩壊後は再びユダヤ教区に戻され、1996年まで生徒の数が減り閉校されるまで使用されていたのだ。

 特にこの旧ユダヤ女学校に40名近いアーティストたちが、どのように作品展開をするのかとても興味があった。これだけ建物自体が強い存在感がある場合、作品はその圧倒的なオーラに飲み込まれてしまう危険性もあるからだ。

 ここで特記すべきは、今回キュレーター陣が意図した作品の方向性ということになる。それは、“動物的”に表現されるということに重点を置いているということだ。しかし、ただ単に“動物的”な表現、直接的な表現で歴史の痕跡が残るこの建物で、またベルリンという過去の傷跡、ベルリンという都市の持つ特異性と向き合うことはできるのだろうか。

 これまでベルリン・アートはベルリンという過去の傷跡、ベルリンという都市の持つ特異性を無視しては語れなかった。冷戦時代ベルリンのアートは政治的メッセージ性を含み、壁崩壊後はアートと都市開発、再生がクロスし、この都市の持つ歴史の記憶、痕跡を顕著にしてきた。

 今回のビエンナーレでは、確かに展覧会場は壁崩壊後のベルリン・ミッテ区を中心としてアーティストたちが、90年代の“ベルリン・オルタナティブ”時代に回帰した設定になっていた。しかしそこに置かれた作品の多くは、“動物的”な表現で、政治的、社会的メッセージを含むものは多くはなかった。

 壁崩壊後ベルリンの中でも劇的に変化を遂げたミッテ区。現在、商業ベースが確立されたベルリンアートシーンにおいて、〈第4回ベルリン・ビエンナーレ〉の回帰的な(会場)設定は、かえって我々にアウグスト通りを中心とした“ベルリン・(オルタナティブ)アート”は姿を消した、その時代は本当に終わりを告げたのだということを再認識させたのだった。


(完)



Copyright (c) 2006 Art Village All rights reserved.