新連載第2弾!



文● 和田真帆  Maho Wada 美術ライター


ベルリンのシンボル的存在であるブランデンブルク門に近接する場所に、ナチスドイツの犠牲となった600万人のユダヤ人へ捧げた慰霊碑が建設され、欧州の第二次世界大戦終戦の1945年5月8日から60年目にあたる2005年5月、記念日から4日後の12日に一般公開された。


まず視覚的に圧倒され、そしてこの慰霊碑が設置されている場の持つ意味について改めて認識させられた。

第三回

欧州ユダヤ人犠牲者への慰霊碑





和田真帆(わだ まほ)
1970年生まれ 千葉県出身。武蔵野美術大学短期大学部空間デザイン科卒業。92年〜ドイツ在住。ベルリンフンボルト大学演劇学科、ベルリン自由大学美術史科修士課程修了。2005年秋、ドイツのAVINUS出版社から北野武映画論『Stille und Gewalt (静寂と暴力)』を出版。
現在は美術家・原高史の"signs of memory"プロジェクト運営を担当し、ドイツと日本を拠点に活動。。

第一回
第二回
第四回
第五回
第3回 (2006年)4月3日








“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター







































“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター































“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター




















●地上と地下の二重構造

 慰霊碑といってもそこにあるのは巨大なグレーの石碑群。約2万平方メートルという広大な敷地内に、縦2.38メートル、横0.95メートル、高さがさまざまな(0〜4メートル以上)石碑が2711基グリッド状に並ぶ。

 入り口やこの敷地を囲む塀や柵というものは特に設けておらず、それぞれの石碑の間(グリッドの中)は人間が一人通り抜けられるのにちょうど十分な幅95センチに設定され(車椅子でも通行可能だという)、訪れた者は自由にいつでもどこからでもこの石碑群の間に入っていくことができる。

 地表面は起伏し、外側の石碑は低く、内部に行くと高くなるが、しかし均一に中心部に行くほど高くなるという単純な構造ではない。内部でも地表面の起伏と石碑の高低さのため、視界は一定せず、そのため高い石碑に囲まれ圧迫感、閉鎖感だけではなく、バランス感覚を失った不安定感をも拭いきれない。ひやりとした質感の、石碑に囲まれた暗く寒い空間に恐怖を覚えた。

 真夏の強い陽射しの中では、石碑の作り出す光と影のコントラストは激しく、冬の暗いグレートーンの空の下では、その沈んだ重さは一層増し、また時間帯、光の当たり具合、さらに角度にもよってこの石碑群はさまざまに変容する。

 設計はアメリカ人ピーター・アイゼンマン。アイゼンマンはエッセイの中で次のように述べている。「このモニュメントには到達点も終点もなく、入るか出るか道を模索することもない。個人がその体験を持続してもそれ以上の理解を許さない。理解することが不可能だからだ」(「a+u」2005年7月号参照)

 慰霊碑の下(地下)には情報センターが設けられ、6つの展示室がある。

 第一の部屋へ入る。地上のグリッド(石碑)が地下の天井に反映され、さらにこの部屋の床面から浮かび上がる明るい光へと続く。15人のユダヤ人が迫害される中で書き綴った記録が、(床面上の)その光に点された石碑面大の画面に映し出されている。頭を下げ一つひとつ読んでいく。恐怖に怯えながらも気丈な言葉、絶望感をあらわにした言葉、愛する家族に綴った文などから、犠牲となった600万人の一人ひとりに人生があったのだということを当然のことながら思い知らされる。

 次の部屋には出身地の異なる15家族が紹介されている。ユダヤ人といってもそれぞれ異なる社会、文化、生活習慣の中で生きてきたのだ、そしてホロコーストにより家族は離散、または絶滅し、それぞれの生活は破壊されてしまったのだ。

 さらに進むと、そこではホロコーストの犠牲となった全ユダヤ人の名前と略歴が読み上げられている。すべてを読み終えるには6年7ヶ月と27日が必要だという。そしてユダヤ人迫害が全ヨーロッパに及んだという地理的広がりの紹介、最後はさまざまな情報がデータベースから得ることができる情報ポータルの部屋へと続く。

 地下の展示室の床面上に浮かび上がった石碑面大の画面に、また石碑がそのまま地下まで貫き壁面として使われるなど、アイゼンマンが地上の慰霊碑と地下の展示に一貫性を持たせているということがわかる。地上の莫大な数の石碑群は個々としてとらえられることはないが、しかしその一つひとつにスポットを当てると、そこには個人の歴史があるということを我々に訴えかける。無数は、個々の集まりなのだと――。

 地上の慰霊碑(石碑群)は、アブストラクトなアート作品として体感するものであり、地下の展示(資料センター)は、ホロコーストの背後関係を提示するものとして、アイゼンマンのコンゼプトは明確だ。


●周辺地理情報と地理的意義

 1989年に東西ドイツ分断の象徴であった壁が崩壊(翌年東西ドイツ統一)、と同時にベルリンは政治的、社会的、経済的また文化的に変容のプロセスに突入した。1999年には首都機能がボンからベルリン移行、これに先駆け90年代から都市再生が急ピッチで進められてきた。

 壁はかつてのベルリンの中心部を分断するようなかたちで建設され、壁周辺は更地と化していた。壁崩壊後の都市再生計画では、このかつてのベルリンの中心であった更地を再び“ベルリンの中心”に構築すべく、一大再生プロジェクトが打ち出された。そしてさながら建築のショーウィンドーのごとく、さまざまな国際的建築家による建築群が現れたのである。

 その代表が、ソニーセンター、ダイムラーシティなどの映画館、劇場、レストラン、オフィス、住宅、ホテルなどが入る複合建築が建ち並ぶポツダム広場だ。またポツダム広場周辺には、再びその所在をこの中心部に移した日本を含む各国大使館が隣接して建ち、そして壁崩壊前から存在する国立図書館、ベルリンフィル、新国立美術館に加え、絵画美術館と美術図書館が新設されKulturforum(文化フォーラム)を形成している。さらに広大な公園、”ティアガールテン“を挟み、ライヒスターク(旧帝国議会堂、現ドイツ連邦議会議事堂)の再建に始まり、シュプレー川沿いに官庁街が建設された。

 これらベルリン再開発ラッシュが一段落してもなお、ブランデンブルク門に隣接する更地は長らくその姿をさらけ出していた。そして2005年、その更地の一角に突如(慰霊碑の完成は2004年末だが)、“慰霊碑”が現れたのだ。

 石碑群の間から覗く空に浮かび上がる、ブランデンブルク門、道を挟んで正面に建つ最高級ホテルアドロン、90年代後半に再開発されたポツダム広場の高い建築群、そして緑が生い茂るティアガールテンまでもが、なぜか現実味のない風景として写る。この慰霊碑の背景として違和感があり、異様な威圧感を与えるのだ。慰霊碑はベルリンという街の中心にありながら、周りから隔離された異空間なのだ。

 慰霊碑がこの場所に建設された理由について、この慰霊碑が公共のものであると表し、またベルリンの歴史的な都市空間や議会、政府地区に位置していることは、慰霊碑が国と民間社会に向けてつくられたものだという顕れなのだ、と公式には説明されている。しかしそれ以上に“違和感”こそが、この慰霊碑がここベルリンの中心に存在する理由なのだと感じる。

 ユダヤ人への迫害はホロコーストに始まったことではない。1800年以上もの間にわたる祖国なきディアスポラ(離散)の生活で、それぞれの国においてさまざまな迫害を受けてきたのだ。土地の所有や職業の選択も限られ、ドイツでは中世、15世紀からすでにユダヤ人ゲットー(強制住居地区)が存在していたという。ドイツ社会から隔離された異空間“ゲットー”内の道幅は狭く、4、5階建ての家がひしめき合い、薄暗く風通しは悪かった。ゲットー内から見上げた空にはきっとこのような現実味のない世界が見えていたのだろう。決して自分が受け入れられることのない世界が――。

     慰霊碑の外観とその中











“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター






























●ドイツの歴史意識、歴史の痕跡と記憶

 この建設の構想はジャーナリスト、レア・ロッシ女氏が発起人となり1987年、旧西ベルリンの市民グループにより提唱された。ドイツが過去の戦争責任を背負い、その残虐な行為を忘れずに、そして同じ過ちを繰り返さない(させない)ために――。

 しかしそれから完成まで実に17年という歳月が費やされたのだ。1999年ドイツ連邦議会によりこの慰霊碑の建設が決議されるまで12年、また決議後も着工までさらに2年という時間がかかったのだ。

 この慰霊碑は“ヨーロッパユダヤ人”に限定されている。しかしホロコーストの犠牲となったのは、ユダヤ人だけではない。同性愛者や、シンティ・ロマ人も同様だ(同性愛者、シンティ・ロマ人それぞれに慰霊碑をベルリンに建設するという妥協策は出ているのだが)。また慰霊碑の建設を請け負った会社が、虐殺に使用された毒ガス“チクロンB”を製造していた会社の姉妹会社であることが判明したが、結局そのまま工事は続行された。

 しかしドイツ社会ではこういった問題も含め、この慰霊碑建設にあたりさまざまな議論が交わされた。

 アイゼンマンは先述のエッセイの中で、マルセル・プルーストの定義した2つの異なる記憶に基づき、次のように述べている。「(2つの異なる記憶)それは過去の中に存在し、物事をあるがままではなく自分に都合良く思いだす、感傷に支配されたノスタルジアと、そして現在の中に生き、過去の思い出にたいするノスタルジアを回避した生きた記憶である。何よりもまず、ホロコーストは決してノスタルジアとして思いだされてはならない。その脅威は、ノスタルジアと記憶との連鎖を永遠に決裂させたからだ。したがってホロコーストを思いだすことは、現在の中に過去が生き生きと存在し続ける唯一の生きた状況であるはずなのだ。」

 以前の連載記事にも記述したが、ナチズムの台頭、第二次世界大戦による破壊、そして降伏、東西ドイツの分裂、ベルリンの壁建設、壁崩壊、首都機能の移転とベルリンが辿ってきたその数奇な歴史、またベルリンが担ってきた政治的背景は、重く、暗いものである。

 連載記事第1回目に記述した共和国宮殿は、旧東ドイツを象徴する建築物だ。しかし長い議論の後、ドイツ連邦議会によって取り壊しが決定し、実行されたのだ。ベルリンの歴史の痕跡が、都市開発や再生の“イメージ”にそぐわないと排除された例だ。

 この慰霊碑は、2001年に建設されたダニエル・リベスキント設計によるユダヤ博物館と共に、歴史の痕跡をベルリンの都市開発や再生に内蔵させた例ではないだろうか。



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