新連載第2弾!



文● 和田真帆  Maho Wada 美術ライター


壁崩壊後ベルリン・アートシーンの中心となったのが、旧東ベルリンに位置するミッテ区だ。

そのミッテのアートシーンを作り上げてきた中心的人物の一人、ギャラリストであり、またキュレーターでもあるヨハン・ノバック氏。

氏の辿ったミッテのアートシーンの16年間をインタビュー。


第二回
オルタナティヴ精神の発芽と成長――1980年代後半以後のベルリン


[インタビュー]
Johann Nowak(ヨハン・ノバック)DNA(Die Neue Aktionsgalerie)ギャラリスト、キュレータ


和田真帆(わだ まほ)
1970年生まれ 千葉県出身。武蔵野美術大学短期大学部空間デザイン科卒業。92年〜ドイツ在住。ベルリンフンボルト大学演劇学科、ベルリン自由大学美術史科修士課程修了。2005年秋、ドイツのAVINUS出版社から北野武映画論『Stille und Gewalt (静寂と暴力)』を出版。
現在は美術家・原高史の"signs of memory"プロジェクト運営を担当し、ドイツと日本を拠点に活動。。

第一回
第三回
第四回
第五回
第2回 (2006年)1月26日






“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター







































“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター































“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター




 
1996年、まだベルリンで美術史を専攻する学生だった私は“ギャラリー巡り”というゼミに参加していた。ギャラリーについて、展覧会について、二人一組となり実際にギャラリーに行き、作品を前にしてのレポート発表というものだった。毎回異なるギャラリーでの授業はそれぞれのギャラリーのコンセプト、作家の傾向などが、ギャラリスト、時には作家を交えて生の声としても聞けるとても刺激的なものだった(私が通っていたベルリン自由大学ではギャラリー巡り以外にも実際に美術館や作家のアトリエでの、または建築、記念碑などの“オリジナルを目の前”にしての授業がたくさんあった)。
ゼミプランには上がっていなかったが、ぜひ“aktionsgalerie”を取り上げてほしいと、私とペアを組んだ学生が教授に掛合った。そこで私はヨハン・ノバック氏の“aktionsgalerie”について担当することになった。
“aktionsgalerie”は夜のみオープンしていたので、ノバック氏も交えながらのレポート発表は夜に行われた。ギャラリーの雰囲気が、それまでゼミで回ったギャラリーとは明らかに異なるとても実験的な感じだったからか、話が盛り上がり、その続きで上のバーへと流れた。そして教授、学生、ギャラリストがワイン片手にアートについて語り明かしたのだった。


壁崩壊後のベルリン・アートシーンを支えたオルタナティブ精神

廃虚となった旧デパートや、旧郵便局、工場跡etc...
ホーフ(中庭)を抜けた先のボロボロの建物、中ではパフォーマンスが行われたり、そこはアーティストの公開アトリエだったり、またはパーティがあったり、そんな空間に壁崩壊後のベルリン・アートは存在していたのだ。

「僕は小さい頃から資本主義構造の中で、なにか空虚なものを感じてたんだ。それはホロコーストに加担した親を持つ戦後生まれの世代ということが大きく関係していると思う。自分が生まれるほんの15年前にそんなことが起こったなんて想像もつかなかった。アイデンティティの追及……十代の頃、そういうものを消化しようとしていた。もっと世界を知りたいと思ったんだ」
ノバック氏は1961年ミュンヘンに生まれる。
壁崩壊後のベルリンのアートシーンを作り上げてきたのは、壁崩壊の1989年20代から30代前半、ノバック氏の世代だ。
ヨハン・ノバック氏

ベルリンへ移り住んだのは壁崩壊前の80年代後半だ。ミュンヘンのアカデミーでアートを学んでいた青年は、医学部へと進路変更。そして学部変更に伴いベルリンに移った。
ベルリンに移る直前までの2年間、第三世界インドへ放浪の旅に出かけている。
「インドから帰ってきて人生観が大きく変った。すごく大きな力を与えてくれたんだ。今も困難な状況に陥ると、その時の経験が僕を助けてくれている」
「ギャラリーやミュージアムのオープニングに出ても、もう全然楽しくなかった。なんか自分の居場所はここではないと感じたんだよね。それでアートの世界から離れる決意をした。医師になってまたインドに戻ろうと思ったんだ。」

80年代後半のベルリン。その頃西ベルリンのオルタナティブの中心であったクロイツベルク区にアーティストと部屋をシェアする。そして医学部生はいつしか再びアートに関わるようになる。アートの世界に戻る大きなきっかけとなったのは1989年の壁崩壊だ。“旧東ベルリン”ミッテ区の、廃虚と化していた旧デパートをノバック氏を含むアーティスト達が不法占拠する。そこは彼らのオルタナティブな活動スペース“タヘレス”となる。壁崩壊後、ベルリン・アートシーンの中心となったのが、旧東ベルリンに位置するミッテ区だ。(上の説明がある場合は除く)

医学部を辞めて後悔は? という質問に対しては、「全くない。」と。
「壁崩壊後のベルリンでは医学部生としているより、アーティストとして活動していたからこそ、その時代と共に生きてこれたんだ。ベルリンは特別な街だったんだ。東のアーティストも西のアーティストも一緒になって……本当にいろんな人間がいたよ。インターナショナルでみんな若くって、そしていろんなことが可能だった、90年代前半は。でも、それは94年ぐらいまでかな……」

「壁崩壊後、東と西の若いアーティスト達が、タヘレスに代表されるようにアウグスト通りなどの空き家を占拠して、そこでアートを発表するようになったんだ。初期の段階ではタヘレスがアーティスト達だけではなく、ダンサー、役者、演出家、作家、ミュージシャン、パーティーオーガナイザーなどの交流の場となって、またそこからベルリン・ミッテのサブカルチャーが生まれていったんだよ。でも僕は比較的早い段階でタヘレスを抜けて、92年には〈documenta 9〉に合わせ、クラウス・ビーゼンバッハと共にアウグスト通りで〈37Raume〉を開催した。これはとってもセンセーショナルなものとして受け止められたんだ。」
空き家の37部屋を利用したこの展覧会は、それまではアーティスト以外人が寄りつかないさびれた場所であったミッテ区アウグスト通りに2万人の来場者を記録したという、伝説の展覧会なのである。この企画を中心となって進めたのが当時20代であったクラウス・ビーゼンバッハ氏。後のベルリンビエンナーレの仕掛け人であり、旧マーガリン工場をオルタナティブなアートスペースKW(クンスト・ヴェルケ)とし、精力的な活動をした、やはりベルリン・ミッテのアートシーンを語る上で必ず名前が挙がる人物だ。

「そして94年には数人のアーティスト仲間と一緒にギャラリー“aktionsgalerie”を立ち上げたんだ。1階がバーで地下がギャラリー。夜にオープンしているんだ。でも仲間は、一人、二人と母国に戻ったり、アートをやめたりで結局最後に残ったのは僕だけだった」
初めはギャラリー経営とアートの発表も同時に行っていたというが、両方は無理、と現在はギャラリスト、キュレーターに徹する。
建物はもちろんタダ同然で提供してもらった。一階のバーはギャラリー維持のためと、アーティスト仲間のたむろの場。地下のギャラリーは、むき出しの壁で洞穴のような空間だった。でもそれが当時の空気にマッチした。この空間を利用して舞踏あり、パフォーマンスあり、ライブあり、朗読会や演劇なども行われた。

「なぜか日本人がこの建物の前で写真を撮っているんだ、それも一回や二回じゃなくて。そうしたら偶然何かの記事で、ここに日本の作家森鴎外が住んでいたということがわかったんだ」
それからは、建物の2階もMORI OGAIとしてギャラリースペースとなる。ヴェネチア・ビエンナーレに参加する前の、まだ無名であった折元立身氏の才能をいち早く見いだして発表したのもこのMORI OGAIだった。

現在ギャラリーが多く建ち並ぶこの界隈は、第二次世界大戦前はユダヤ人が多く住み、ユダヤ教教区の施設などが固まって建ち並ぶところであった。その後の社会主義時代には政府に置き去りに去れ、壁崩壊後も荒れ果てた廃虚、所有権が明確ではない空き家などで溢れかえっていた。この廃虚や空き家をアーティスト達が占拠したり、タダ同然で借りることが出来たのだ。90年代前半、まだアート市場が確立していなかったベルリンのアートシーンには、ノバック氏達のような若いエネルギーで満ちあふれていた。インターナショナル、グローバルで、多種多様であった。アートだけではなく、音楽、ダンス、演劇、建築、文学がクロスし、ハイブリットされた。こうして商業ベースとは離れた自由な空気の中でベルリン・アートシーンができ上がってきたのだ。







“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター
































“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター
























“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター




















“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター





























“ベルリンの壁”崩壊後のドイツ美術
文●和田真帆 Maho Wada 美術ライター



 「僕はそういったベルリン・ミッテのアートシーンで、初めて大きな国際展をオーガナイズした一人だと思うよ。1996年ルクセンブルクのゲーテ・インスティテュートから招待され、〈ベルリン・アート〉展を行った。それでベルリンでもベルリン展を開催しようと考えた。オラニエン通りにあるポストフォアアムト(旧郵便局)はずっと気になっていたんだ。中はどうなっているんだろうと。立地条件もすごくいいしね。それで翌年のポストフォアアムトでの国際展 〈und ab die post(ウントゥ・アップ・ディ・ポスト)〉 へとなったんだ。アート展示だけではなく、パフォーマンス、ライブ、実験的な演劇のプログラムも展覧会期間中(約2週間)毎日夜遅く、時には夜中まであってね」
ポストフォアアムト(旧郵便局) 撮影:河村恵理

〈und ab die post〉は1997年から4年連続で開催された。これは1998年KWで行われた〈ベルリンビエンナーレ〉に先駆け、ベルリン・ミッテで行われた初めての国際展だ。ベルリンを拠点にするアーティストと、毎回世界の二都市から選ばれたアーティストが招待される。エルサレム(イスラエル)、キエフ(ウクライナ)、香港、ブダペスト(ハンガリー)、ニューヨーク発のアートが、ベルリン発のアートと同時にベルリンで発表されることで、それぞれの都市の、その時の国際情勢、民族、経済、都市開発の問題がアートを通して比較、検証され、ベルリンという都市の現状、問題も顕著になるのだ。
2002年には同じくミッテ区に建つ防空壕跡に場所を移し開催された。

「どの時代もそれぞれわくわくするような時があった。90年代の終わりまでベルリンのアートシーンは実験的だった。90年代の初めは建物を占拠して……とにかくなんでも可能だったんだ。90年代後半はベルリンで国際展が行われるようになって、少しずつベルリン・アートが世界的にも注目されるようになってきた」

90年代後半からの国際展、またメッセなどでベルリンのアートシーンは“ハイプ”状態となる。ハイプとは、ドイツ語で持ち上げられたという意味だ。アートだけではない、ベルリンという街自体に多くの注目と関心が集まったのだ。

冷戦の終焉と共に閉ざされた都市から世界へ開かれた都市へ、そしてドイツの首都へ返り咲いたベルリンは、この16年間政治的、社会的、経済的または文化的変容を続けてきた。1999年のボンからベルリンへの首都機能移行に先駆け、90年代から都市再生が急ピッチで進められてきた。再開発の進んだベルリンは資本主義による権利争いが激しくなった。もちろんミッテ区においてもその影響は大きい。ボロボロの建物も、その多くは立派に修復され、すっかりシックなカフェやショップ、コマーシャルギャラリーが建ち並ぶ地区へと変貌を遂げた。不法占拠のアーティスト達の多くは立ち退き、修復工事が着工するまでの展示スペースとして活用された建物も現在は僅かとなり、オルタナティブな活動も平行してすっかり影を潜めてしまった。

「〈und ab die post〉は 2002年で一つの区切りとした。今後は新しい形を考えている。今、いろいろなアイディアが引き出しにあるんだ……」(とここで現在進行中の案を話してくれるが、まだ公表できない情報とのことで、ここでの記述は控える)

「ベルリンにはもうすでに国際的なアート市場が確立してきたと思うよ。でもそれと平行してベルリンという“場所”の持つ役割は昔ほど大きくはなくなってきたかな。今は国際的なアートシーンの拠点の一つにしかすぎないのかもしれない。ニューヨークからもロンドンからも今、ベルリンに拠点を移そう考えている人たちは大勢いるよ」
「これからのベルリンのアートシーンの行方? 僕に関していえば、4年前に方向転換した。アウグスト通りにギャラリーを移転して、それまでのノンコマーシャルからコマーシャルなギャラリーにね。それまでのアーティストとだけの仕事からコレクターとの関係が入ってきた。それは僕にとって全く未知な世界だった。これからはコレクターがアートシーンに介入してくることが重要だと思う。90年代、お金はそれほど重要ではなかった。基本的にタダで借りられた展示空間があって、そしてアートは楽しければ良かったんだ。でも今は営利的になって、でもそれだけではなくてプロフェッショナルになったというか。これからはコレクター展なんかもオーガナイズするつもりだ。90年代は勢いがあって、実験的なものをオーガナイズしてきたけど、これからは持続的なものを考えなくてはね」

「廃虚などをまた発掘してきて展覧会をしようとはもうあまり考えられないね。それはノスタルジーだよ。そういう時代はもう過ぎたんじゃないかな。これからはそういったものに変る新たなアートスペースができると思う」
「でも僕の中でのモティべーションは昔からほとんど変ってないよ。実験的なことをすること。新しいことをすること。アーティストを発掘すること。アーティストが成功すること。アーティスト達と一緒に成長していくこと」
ノバック氏はその時代時代を敏感に感じ取ってアートと関わってきたのだ。時代錯誤でもいけない。でも大切なものも失わずにいきたい。そう願っているようだ。

若い頃インドを旅し、世界観が大きく変った、というノバック氏。戦後生まれの、壁崩壊前後、20代から30代前半であった彼らの世代が、壁崩壊からのミッテのアートシーンを支えてきた。時代と共に生きてきた彼ら中心となった人物の多くは、それぞれ活躍の場をインターナショナルに広げ、現在オルタナティブな活動を続けているものは少ない。そろそろじっくりと腰を据えて仕事がしたいという年代に達したのだろう。

最後にノバック氏の言った「売れるアートと面白いと思うアートが必ずしも一致しているとは限らない」という言葉が印象的だった。


インタビューを終えて
ノバック氏とはあれからもうかれこれ10年来のつき合いだ。ノバック氏がまだ国際展などを手がける以前からだ。だが当時“aktionsgalerie”はミッテのオルタナティブアートシーンではすでに名前が知られていた。普段はギャラリーに来られない人達が、夜にオープンのため、またギャラリーの上がバーということもあり、気軽に来られる空間、そしてノンプロフィットの実験的なものを扱うというのがギャラリーのコンセプトだった。
私もこのギャラリーを通して当時のベルリン・ミッテのアートシーンの空気を感じ取っていたと改めて思う。

98年の〈und ab die post〉は、私が個人的にドキュメンタリービデオを撮っていて、毎夜毎夜会場に通い詰めて参加アーティストや関係者をインタビューしたり、パフォーマンス、演劇などを撮っていた。
実際に作家の話を聞くことで、作品の背後を含めてまた違った目で作品を見ることができた。参加作家はインターナショナルで、それぞれ国の政治、経済情勢など、その背後は異なるのだ。“アートは面白い!”と思うようになったきっかけだった。

99年のドイツにおける日本年の一環として、私はベルリン在住の若手アーティストによる4人展を企画した。アイディアを持っていくつかのギャラリーを回った。ノバック氏にも持ちかけたところ、快く場所提供を申し出てくれ、MORI OGAIでの〈FLATTERN〉展(塩田千春、柴田ジュン、岡田七歩美、畑陽子)へとなった。FLATTERNとはドイツ語で羽をばたばたさせる、はためく、ひらひらするという意味。これから大きく羽ばたく、大きく変化する前の状態、当時のベルリンと作家の状態を表わす言葉として選択した。オープニング当日にはコンサート、ダンスもあり400人が集まった。

2004年にはノバック氏のアイディアがきっかけで、アウグスト通りでのプロジェクト〈Signs of Memory Projekt Auguststrasse〉(アーティスト:原高史、運営:和田真帆)が開催された。昔は宿場町として栄えていたが、現在は過疎、高齢化の進む新潟県浦川原村から地域活性化のため原高史に依頼され始まった〈Signs of Memoryプロジェクト〉が、今度は逆に、さびれた場所だったが、現在はシックなカフェやギャラリーが建ち並ぶ通りへでのプロジェクトへと繋がったのだ。
前回と場所も、状況も文化も全く違う場所で同じかたちでのプロジェクトである。しかし伝えていくものがある、伝えていく歴史があるという点では一致している。実験的なアートが影を潜め、商業ベースになった現在のこの通りは、過去、未来を含めた“現在、現状のアウグスト通り”なのだから。

今回ノバック氏を約10年振りにインタビューして、改めてミッテのアートシーンの移り変わりについて考えさせられた。それぞれの時代が刺激的で楽しかったと言ったノバック氏。改めて壁崩壊後の混沌とした時代の、自由で実験的なミッテのアートシーンの刺激的な空気を体感できたことは、私にとって貴重な経験だと思う。しかしだからこそ最近のベルリンのアートシーンは少し刺激が足りなりと思ってしまうのだ。あの頃あった若いエネルギーはもうミッテには無い。商業ベースになるのが悪いとは言わない。実際にノンプロフィットでは限界がある。しかしアートをすべて商業ベースにのせることもできないし、その兼ね合いはとても難しい。
ノバック氏も実際この数年コマーシャルに方向転換してから、アーティストの選択が少し守りに入り、実験的な企画が少なくなった。しかし現在、ギャラリーにもコレクターがつき経営は軌道に乗ったのだろう。ここのところ大きな企画展のキュレーションをしていなかったが、現在またこのミッテの商業ベースのアートシーンに刺激を与えてくれそうな企画を構想中だという。これからの動きに注目だ。


経歴(抜粋)
■Johann Nowak(ヨハン・ノバック)

1961年 ドイツ・バイエルン州ミュンヘン生まれ
1994年 ベルリン・ミッテ区に数人のアーティストと共にギャラリー“aktionsgalerie"をオープン。
1996年 ゲーテ・インスティテュートの招待により、ルクセンブルクで“ベルリン展”をオーガナイズする。
1997年 ベルリン・ミッテのポストフォアアムト(旧郵便局)でベルリン・アートと世界から二都市からのアート選び行った国際展“und ab die post”をオーガナイズする。
1998年 “und ab die post”をオーガナイズする。
1999年 “und ab die post”をオーガナイズする。
2002年 "inseideout"と名前を変え場所を同じくミッテ区の建つ防空壕跡に移しオーガナイズする。
その他にもベルリンの5つギャラリーが集まり、ドイツ・ミュンヘンの工場跡を利用したアートスポットで"all about berlin"をと題し、ベルリン発のアートを発表。
また多くの国際メッセに出展する。



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