文●テメル華代 KayoTemel 画家   第二回
                               第一回 10月11日

                               第三回  3月 2日

                               第四回  5月16日
                                第五回  8月 3日
展覧会1: "100 Pittori in via Margutta"
場所: Via Margutta, Rome, Italy
期間: 2005年10月28日〜11月1日


展覧会2: “Sotto l'ala dell'Arcangelo”
場所:Basilica di S. Maria in Montesanto
Via del Babuino 198, Rome, Italy
期間: 2005年10月28日〜11月20日

テメル華代
1977年山形県生。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。2001年渡蘭、アムステルダムの美術アカデミーで油彩、ドローイングを学び2005年に卒業。絵画(油彩、インク画、ドローイング)、イラストレーション、絵本制作、美術批評を手がける。2005年6月よりローマに滞在。
第2回 (2005年) 12月7日


画家の描くローマ
文●テメル華代 KayoTemel画家



 
図1: via Margutta



   同時代を生きる美術

 朝夕に霧のたちこめる日がしだいに多くなり、晩秋のローマは夏とはまったく別の、うら悲しい表情を見せはじめた。数ヶ月前までは、烈しい陽射しとともに国じゅうを覆いつくした紺碧の空も悠々と高さを増し、いまや青白い背景となって暖色系の街並みを浮きあがらせている。午後の柔らかな雨が教会や家々の壁に染み入り、風景全体のコントラストを軽妙に整えた時など、「北方人には想像し得ざる美わしき調和」といってローマの秋を愛でたゲーテの言葉が思い起こされる。ある晴れた日の昼下がり、10月末から11月にかけて毎年開催されるという、Via Margutta(マルグッタ通り)の美術市を訪れた。Via MarguttaはVia del Babuinoの裏手に伸びる、知る人ぞ知る美術の小径で、ギャラリーや骨董商、画家や彫刻家のアトリエ、額職人や家具職人の工房が所せましと軒をつらねている[図1〜3]。Jose Gallegos y ArnosaやNovella Pariginiといった画家を育てた路地裏、あるいは映画『ローマの休日』で、グレゴリー・ペックの演じた記者のアパートが51番地にあったとされる通り、と言えばより馴染みがあるであろうか。

 〈100 Pittori in via Margutta (マルグッタ通りの100人の画家)〉のタイトル通り、イタリア人現代画家100人が作品を展示即売する美術市には、今年もたくさんの人が詰めかけていた。いつもは閑静なMarguttaが、この数日間はお祭りのような賑わいを見せている[図4〜6]。ひとつ質問すれば陽気にいろいろと説明してくれる、そんな画家たちの人なつっこさはいかにもローマ的で、油彩の相場も300〜400ユーロと良心的だ。ローマ・クワドリエンナーレのような幅広いジャンルのアートを扱う展覧会とは異なり、展示作品が絵画と彫刻に限られている点も簡潔的で、私にとっては好都合の現代美術展といえる。しかし、作品をひとつひとつ眺めていくと、期待に反して装飾的・イラスト的なものが多いことに気づかされた。対象を見極めて独自の様式で再現するという、平面芸術におけるリアリズムを真摯に追究した作品は見あたらず、いわゆる日曜骨董市や青空蚤の市の延長といった観が拭いきれない。ローマの現代美術の代名詞とされるMarguttaだけに、心に迫る作品や真新しい感動を期待していたのだが、なかには観光客向けのキッチュな複製絵画を彷彿とさせるものもあり、半ば落胆して家路についた。

 

図2、3: via Marguttaのアトリエ



画家の描くローマ
文●テメル華代 KayoTemel画家











 図4、5、6: "100 Pittori in via Margutta"

 古代より脈々と受け継がれる美術的伝統を、都市全体をもって体現したかのようなローマ。その肥沃な美術風土にあって、敢えて「現代」美術にこだわる意味は何か、自らの美的欲求について再考せざるを得なかった。個人的な嗜好の話になるが、私はリアリズム絵画を好んで鑑賞する。ルネサンス期の緻密な描写でも、印象派のような粗い筆致でも、キュビズムやフォーヴィズムの個性的な投射でも構わない。コンセプトや但し書きに頼ることなく、平面芸術の成し得る再現の可能性を、正々堂々と形において追究したものをリアリズムとして認識する。目を細めて見た瞬間、ぐんと深遠なる奥行きを呈示するような絵画に出会うと、胸が高鳴る。三次元の対象を、いかに観察・解釈し二次元へと再構成するのか、その再現の過程における画家の葛藤や決断力、即興的なひらめき、独自の歪みや際どい振幅が刻まれたタブローの前には、身震いさえ感じてしまう。おそらくこの鑑賞の嗜好は、創作における美的欲求と双方向で、例えばわずか数本の線で三次元の塊や空間をうまく描き出せたときに覚える興奮は、巨匠たちの技を彼らのカンヴァスに読み取っていくときの感動とよく似ている。話を「現代」美術に戻せば、私はもともと「新奇性」や「最前線の」という観点から現代を選り好みしてきたわけではなく、むしろ逆にあらゆる時代を通して生きつづける普遍的なリアリズムの精神をインスピレーションの糧としてきた。ただアムステルダム滞在中は、こうした嗜好や美的欲求を満足させる現代画家に出会うことが比較的容易であったため、「もの言わぬ古典よりも、答えの返ってくる隣の画家」という便利さで、現代美術とのインターラクションが多くなってしまったのだと思う。私が躍起になって求めていたものがつまり、「同時代を生きるリアリズムの精神」だったとすると、ローマにおける精神の在りどころを、「現代」美術という小さな枠のなかにのみ求めようとしていたことの無謀さが明らかになってくる。

 ふと立ち寄った教会のなかで、礼拝堂の壁いっぱいに描かれた宗教画などを眺めていると、あたかもそこに描かれた物語を、その場で目撃しているかのような感覚に陥る。ひとつひとつの絵画が、聖書に語られた光景へといざなう窓のように働き、閉じられた空間であるはずの聖堂は四方八方へと限りなく奥行きを増していく。観者を画面のなかへと引きこむ絵画、その幻覚を助長する堂内の仄暗い光、そして観者をとり囲むように迫りだす彫刻の数々、そうした絵画・建築・彫刻が三位一体となって初めて体感されるルネサンスのリアリズムは、古代や中世、近代、現代などといった枠組みを忘れてしまうほどに生き生きと私の心に新鮮な感動を与えてくれる。ローマの日常生活において目にする芸術は、教会内のスペクタクルのみにとどまらない。パラッツォを訪れれば、天使を描いたフレスコ画やローマ帝国時代の雄大な風景画が、広場を訪れれば、威風堂々と街を見下ろす皇帝の銅像や優雅な噴水が、そして街中のいたるところに施された浮彫りや温かい眼差しのイコンが、オリジナルのコンテクストにおいて社会的機能を果たしつつ、現代美術をはるかにしのぐ立体感をもって街のなかに美しく生き続けている。時代の概念を超越したこの美術の都ローマで、美術館やギャラリーにこもり特定の時代・様式に固執していては本物の精神には出会えない。プロテスタント的な街並みを眺めていたころには予想もつかなかったことだが、ローマに来てからは現代美術によりもむしろ、古典作品や宗教美術に対しての親近感を覚えることのほうが多くなった。古き伝統や作品が、日常の生活様式にいたるまで浸透したような街に暮らしていると、「同時代」の幅も自ずと広がっていくのかも知れない。



図7: Basilica di S. Maria in Montesanto外観(左の建物)









画家の描くローマ
文●テメル華代 KayoTemel画家


 
 皇帝や教皇の権力の下に花咲いた貴族文化を誇るローマにおいて、現代画家の示す1枚のカンヴァスはいかにも無力に感じられる。〈100 Pittori in via Margutta〉のような現代美術市にしても、現代美術ギャラリーのショーウィンドウにしても、ローマ市内に展示された現代美術にはどこか、とってつけたような不自然さがある。11月、Piazza del Popoloを通りかかった際に、いつもは閉めきられているBasilica di S. Maria in Montesantoの扉が開放されていることに気づき中を覗いてみた。何やら多くの人で賑わう堂内をよく見回してみると、礼拝堂の絵画や彫刻と組み合わせて、個人の作品を発表するグループ展が催されている[図7〜9]。カルチャースクールで開講された宗教画教室の、お手前披露といった感じだろうか。教会内を展示会場とすることで、雰囲気のある背景と光を得る代わりに、少しでもごまかしのある作品は痛々しいまでに安っぽく浮き上がってしまう、そんなローマ美術の縮図を垣間見たような気がした。現代作家にとっては逆境ともいえるこのローマの美的風土だが、それにしてもなお、このような趣ある教会での展覧会が日常茶飯事に叶ってしまうとは、なんと羨ましい環境だろう。

 

図8、9: “Sotto l'ala dell'Arcangelo”



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