宮田徹也氏による新連載 
  
      第六回(最終回)
  「見守る」から「戦う」へ

 宮田徹也(日本近代美術思想史研究)


第一回  第二回  第三回 第四回 第五回
第6回 (2007年)12月21日











連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也



 前田常作氏が2007年10月13日、心臓病のため死去した。享年81歳だった。風倉匠氏が2007年11月14日、肺癌で死去した。享年71歳だった。ご冥福をお祈り致します。
 連載は最終回を迎える。しかし「敗戦後前衛美術」家達の活動は、留まることを知らない。前回の連載から今回にかけても、多大な数の展覧会が行なわれた。それは新作に限った展示ではないとしても、多くの作品を目の当たりにできることは過去の美術を調査するという名目ではなく、現在の美術に向かう眼を培うことになるであろう。



●常設展からの発展
 全国に揃った美術館は冬の時代といわれているが、その分、常設を充実しようとする傾向が目立っている。〈磯部行久Landscape‐Yukihisa Isobe,Artist-Ecological Planner〉(2007年7月28日〜9月30日 東京都美術館)においては、同館が所蔵する60年代の「ワッペン」の作品を上手く使いながら、2000年に越後妻有アート・トリエンナーレで復活するまでの沈默の30年間を、丁寧に展示した。
 画廊においても、例えばギャラリーアーティストスペースは〈開廊3周年記念展〉(2007年10月9日〜10月20日)として、秋山祐徳太子・阿部典英・小島信明・吉野辰海・米谷雄平の作品を、気軽に並べていた。銀座を巡っていて、若い作家に引けをとらない現在の姿を見せつけられると刺激を感じる。
 研究の分野でも「日本敗戦後前衛美術」は、美術のみならず社会学からの視点でも取り上げられるようになってきた。名古屋を拠点とする雑誌「REAR」(リア制作室 2007年9月1日)では文星芸術大学非常勤講師の石川翠が中村宏を、雑誌「あいだ」141号(2007年10月20日 『あいだ』の会)ではシカゴ大学大学院東洋言語文明学科に在籍しているジャスティン・ジャスティーが「1950年代ルポルタージュ運動の社会的美学」を、東京芸術大学大学院博士課程の足立元が『日本近現代美術史事典』(2007年9月10日 東京書籍)に対する書評を掲載した。30代の研究者の今後の動向にも注意を払いたい。





連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也
















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也














連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●26枚の作品の連鎖反応――加納光於
 前回の連載で、私は「戦後美術」という括りの無効性とそれによる連載当初の五つの問題点よりもむしろ作家を個々の認識し個々の作品に向き合うことが重要ではないかと問いを立てた。「戦後美術」において「著名」なこととはどういう意味になるだろうか。現在まで名が残っていれば、それだけ作品がよいと手放しで言えるのだろうか。
では、当時「著名」で、現在「無名」な作家とは何だろうか。前回の連載で取り上げた稲木秀臣のように、現在脚光を浴びないだけで素晴らしい作品を制作している作家も多くいる。すると、当時脚光を浴びていなくとも、時代を把握し自己の内面と戦い如何なる困難の網を潜り抜けてもなお制作を続けている「無名」の作家も多数存在することになる。
このような論点を踏まえて、最終回である今回は以下の項目で展評を進めていく。
 @作家の現在の動向
 A九州における三つの菊畑茂久馬展
 B連載当初に予定していた〈桜井孝身+中村順子二人展〉
  2006年9月12日〜18日福岡市美術館


@作家の現在の動向

〈加納光於個展―止まれ、フィボナッチの兎〉2007年9月10日〜29日京橋・ギャルリー東京ユマニテ
〈日影眩新作展―晴れた日には明日が見える―〉2007年9月10日〜29日京橋・東邦画廊
〈ゼロ次元儀式「いなばの白兎」〉9月28日多摩美術大学(「芸術とシャーマニズム」対談:中沢新一×加藤好弘(ゼロ次元)×針生一郎 映画:ゼロ次元儀式映画の一環)
〈ゼロ次元儀式「いなばの白兎」〉10月10日、11日渋谷・UPLINK(特集上映『性と文化の革命展』「ゼロ次元儀式映画」(1972年)「タントラ儀式物語」(1982年/2007年)の一環)
〈桂川寛‐絵と資料展〉資料展示2007年9月22日〜24日池袋・アトリエ村資料室/作品展示2007年9月21日〜10月6日(土)池袋・三愚舎ギャラリー
〈村上秀夫画集記念展〉9月24日〜9月29日銀座・ギャラリーGK
〈軽井沢アート・コントラーダ〉9月8日・9日、15日・16日・17日、22日・23日・24日、29日・30日軽井沢離山公園「あめみや邸」一帯
〈蛭澤敬個展〉2007年11月5日〜10日東京・ギャラリー代々木

 1933年生れの加納光於の個展から始める。
加納光於展
今回は紙に油・水彩を用いた作品を26点と、オリジナル版画集『汝、その噴水を避けよ』(インタリオ7点入)、さらに詩人平出隆氏とのコラボレーションによる『詩画集 雷滴 その研究』(インタリオ13点入)が展示された。
 前回(2006年3月)の巨大な油彩画に較べて今回の主なる作品はおよそ58×80cm、大きいものでもおよそ120×80cmではあるのだが、迫力という点で全く引けをとらない。一枚の絵の中に「部屋」が幾つかあり、その中で個々の世界が展開しているにも拘らず、26枚総ての作品が連鎖反応を起し、展示空間全体で一つの作品を構築しているように感じた。
 その個々の世界に描かれている様々な抽象的「形態」は、人の動作や森羅万象の時間的経過といったものを見詰めた際に垣間見られる、いわば「原風景」とも言うまでのレヴェルに達している。画面内で「形態」が程よく「配置」されることにより更なる連続性が発生して、見るものは「無限」を体感するのである。
 展覧会タイトルにある「フィボナッチの兎」とは、ユマニテのwebによると(http://kgs-tokyo.jp/human/2007/0910/index.html)、「13世紀のイタリアの数学者レオナルド・ピサノが書いた『Liber abaci』の中で数学のクイズとして取り上げられ、木の枝別れやカタツムリの殻などと同じように家計(ママ)図のような数列を意味するものとして使われ」ていたそうだ。「配置」は「数列」でもあるわけだ。





連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也











連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也

●生きることの不可思議さを表す「形態」――日影眩
 1936年生れの日影眩の作品にも、加納と同様の「形態」が存在する。ローアングルから描かれている世界は、9.11を感じさせる物語性、現在を批判する風刺性、長く住むニューヨークに漂うのであろう現代性を確かに読み解くことが出来る。勿論、ポップ・アートやニュー・ペインティングとの関わりを指摘することも可能であろう。
日景眩展
しかし私にとって重要なのは、日影が描く「形態」である。人体を単にディフォルメしているのではなく、加納と同様に、人が無意識に行なう仕草とそれに伴う言葉には表すことのできない内面の衝動、つまり人間として生きることの不可思議さ―不毛と歓喜―が具象的な「形態」として描かれ、国、性別、年齢を超えて共有するのである。日影は「想像によってその像を変形しました」とDMで述べている。ここにこそ、日影の創造力と現状を見詰め乗り越えていこうとする作家としての姿勢がある。日影は自著『360度のニューヨーク』(ギャラリーステーション 2000年)において、「日本という国の美術界にとって、前衛とは、戦前から西洋最先端美術のパクリ以外の何物でもなかったし、戦後そのあり方は敗戦によって一層確定的になったと私は嫌悪している」と書いているから、日影にとってここに取り上げられるのは心外かもしれないが、これだけ優れた作品の制作を続けていることを見逃すことは出来ない。
 加納と日影、二者は「抽象」と「具象」というスタイルを用いながらも、フラットな画面を構成する「絵画」である。眼に見えるものが眼に見えないものを顕わにする。文章として比喩するのであれば、字面を追って書かれているものを想像する小説タイプではなく、言葉のぶつかり合いによってイメージを喚起する詩のような側面を持つのではないだろうか。詩のような側面を持つのは、ゼロ次元も同様である。











連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●「芸術至上主義」の側面――ゼロ次元
 1936年生れの加藤好弘が率いるゼロ次元は、加藤の母校、多摩美術大学でシンポジウムと《儀式》を行なった。シンポジウムでは針生一郎が「日常的行為の中にこそ、芸術が隠されている」とゼロ次元を高く評価したことが印象的だった。
ゼロ次元パフォーマンス 撮影:辻井潤一
《儀式》は多くの学生が参加し、特に「鰐鮫」=男性が増え、「兎」=女性が歩行する距離が長くなったことで迫力が生れた。テロリズムとはテロを「受けた」側からすれば突発的な事項であるが、「する」側は綿密な計画を要する。ゼロ次元が「テロ集団」であるとすれば、その計画性の緻密さを評価すべきであろう。決して「偶然」や「思いつき」ではないのだ。
 UPLINKでは1972年までの記録映画、80年代の《タントラ儀式物語》そして現在の《儀式》と、ゼロ次元の変遷を追うことができた。この日の「儀式」には加藤の絵画のみならず、メンバーのリアキとハルカが描いた軸も展示された。その作品から、画力の高さ、加藤への共感と理解を垣間見ることができる。でその初期の活動は加藤ともう一人程であり、その振り付けが現在にも生きていることに深い意義を見出した。また、初期は男性のみであったが、中期になると女性が主体となる。《タントラ儀式物語》の中心人部である和子氏の狂気は凄まじいものがあり、この映画が決してポルノではなく「芸術」として成立しているのは、加藤のタントラに対する理解のみでないことが明白であろう。それはゼロ次元が正統な「戦後美術」ではなく「アングラ」から発生したことや、当時テレビや週刊誌を賑わせたためである。今で言う「サブカル」として考察されてしまっている。しかし実際にはこの国が持つ「踊り」の意味、古くは『古事記』における天照大神の舞い、中世の波沙羅、江戸期の一遍上人「踊念仏」を経てインドに回帰するという、いわば「芸術至上主義」の側面を持つ。日影と、イメージを喚起させる点では同様となる。
 加藤の現在の興味は「アジアと女性」という「虐げられた無意識」にあるという。今後の展開も眼を離せない。





連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●微細な動きの魅力――桂川寛
 1924年生れの桂川寛は、新作は無かったものの、その活動初期から2004年11月のギャラリー環における個展〈ひるの夢と夜の夢〉までの、各年代の代表作品を所狭しと三愚舎ギャラリーに並べた。美術館で行なうべき内容を画廊で見ることとなった。

桂川は加納、日影、加藤のような象徴性を潜ませるのではなく、実際の画面上のイメージで勝負する。この姿勢を一貫して保っている。『開花期』(1950年)を実際に見られたことは感動した。この作品も1954年制作の『少年工(A)』も、また『螺旋階段』(2000年)においても、じっくりと作品を見ていると描かれている対象が不気味に動き出す。花は揺らぎ、少年は語りだし、管理されている者達は自動人形のように歩みだす。単なるシュルレアスティックな作品ではなく、この微細な動きこそが桂川の特徴であろう。
 また、桂川の著作『廃墟の前衛』(2004年 一葉社)にも掲載されてはいるのだが、コラージュを実際に見た時の強烈さが忘れられない。この時期、多くの作家がコラージュ作品を発表しているが、ショッキングという点では群を抜いている。耳の作家、三木富雄のコラージュに、以前東京都現代美術館で接したことがある。1960年代の「戦後美術」コラージュ作品について研究すると、重要な論点が見つかるのではないかと思う。








連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●生の人間が画面の中で脈動――村上秀夫
 1924年生れの村上秀夫が『村上秀夫画集』(2007年9月白河書院)出版を記念して、展示を行なった。巨大な作品群に圧倒される。油絵にみえるが、キャプション、画集においても「ミクストメディア」と表記されている。
村上秀夫展

 山口長男よりももっと豪快に描かれている「形」と「マチエール」は、見るものに激しく襲いかかってくる。有機的という言葉を越え、生の人間が画面の中で脈動している。2000年頃から始まった金と銀を用いる作品のほうがむしろ古めかしくみえる。正確に言うと、古くて新しいのだ。村上は懐古するのではなく、現代に対して戦いを挑んでいることが伺える。
 画集によると村上は1943年東京外語大学仏文学科入学、45年日本帝国陸軍船舶兵として香川県に入隊、46年同大学卒業、54年東京芸大長期研究生、55年日本アンデパンダン、78年新ロマン派結成、81年現展新人賞、84-5年渡米サンフランシスコ展、今日の日本美術特陳、2004年ニューヨーク現代美術6人展とある。1980年代から始めたコラージュを基礎とするミクストメディアの作品は必見で、桂川のようなショッキング性は持ち得ないとしても、村上自身のペインティングと較べてデザイン的な繊細さを携える。再度ペインティングに目を向けてみると細部に注意深く気を払い、コラージュは大胆に行なっているともみえる。村上に対する研究も始めなければならないだろう。




連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也













連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也












連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●芸術の現代性と戦っている池田龍雄
 1928年生れの池田龍雄は、8月の個展に引続いて、軽井沢のグループ展に参加した。この連載において池田の記事が非常に多い。それ程、池田は精力的に活動している。軽井沢の出品作家を一覧する。
池田龍雄、軽井沢でのグループ展展示風景

 
青木千恵子(陶芸)/浅沼真知(染織)/芦田三枝(日本画)/足立煉(ガラス造形)/飯田竜子(染織)/猪狩喜永(陶芸)/池田龍雄(絵画)/上野隆幸(陶芸)/岡美幸(染織)/勝井三雄(デザイン)/小林一夫(彫刻)/斉藤融(イラスト)/佐藤允弥(水彩画)/佐藤万里子(ガラス造形)/佐藤實(陶芸)/重谷和郎(タイル)/清水富美(陶芸)/武井順一(木工)/田所桂華(書)/谷弥生(人形)/田端志音(陶芸)/橋本潔(版画)/林楷人(日本画)/藤森カツジ(絵画)/藤森智香里(人形)/不破越夫(革工芸)/不破和子(染織)/増田洋美(インスタレーション)/八木澤奈々(漆芸)/山添洋(絵画)/山田ワタル(木工)/山室深志(木工)/芦田淳(ファッションデザイン)
 「美術」という枠組みから大きく逸脱し、様々なスタイルの作家が並ぶ場所で見る池田の作品群は、池田自身が主張する「自由さ」を物語っている。このような形態の展示は、凡そ目録が残されていかないため、ここでは池田が出品した作品を書き留めておく。
『場の形(場の位相シリーズ)』No.1-5(2002年/アクリル・パネル)
『イヴのリンゴ(万有引力シリーズ)』(1999年/ミクストメディア)
『遁走する錆たち』(1994年/ミクストメディア)
『八つの弦』(1995年/ミクストメディア)
『音響学的散策』(1990年/ミクストメディア)
『積層(万有引力シリーズ)』(1997年/ミクストメディア)
『浜辺の集い』(1995〜6年/ミクストメディア)

 新作はないが、《場の位相》シリーズを見られたことは嬉しい。ここ十年来の作品を見ると、現在池田がどのような意図を持って制作しているかを垣間見ることが出来る。池田は加納達と桂川達の中間の年齢に位置する。予科練という戦争体験を持ちながらも、『梵天の塔』をはじめ、積極的に芸術の現代性と戦っている。立体であろうとBOXであろうと平面であろうと、常に素材は支持体へがちりと食い込み、そこに展開する世界観はユーモアに満ち溢れながらも辛辣な諧謔を忘れていない。イメージの喚起を促しながらも、現実を決して見失わないこの作品群は、池田の生き様そのままである。この詳細な研究は稿を改めることにしたい。





連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也
















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也






●三つの菊畑茂久馬展
 1934年生れの蛭澤敬が作品制作を始めたのは、1997年からである。この頃は写真をコラージュしていたらしい。1998年から毎年、ギャラリー代々木において作品を発表している。
蛭澤敬展
透明アクリル板の裏からアクリル絵具を塗り、カッター等で描線する。硝子絵と同じ手法だ。サイズは葉書大から三号程度の小品しか制作しない。一日一点は制作できるという。題名もサインもそこには存在しない。画面の上下左右も見る者に委ねるという。作品に眼を投じると、実にさまざまな様式にみえてくる。抽象、具象、人体、肖像、フォーヴ、キューブ、シュルレアリスム、マチス、クレー、ブラック、瀧口修造……。しかしそれらは、「似ている」と見る者が感じることだけであり、自己の色眼鏡を取り払って再度作品に向かうと、蛭澤の作品以外何物でもないことを実感するのだ。このような豊なイメージを制作できる秘訣とは、如何なる括りを持たず自由に制作している姿勢になるのではないだろうか。この姿勢は池田と共通する。そして、菊畑茂久馬は1935年生れである。

A三つの菊畑茂久馬展

〈菊畑茂久馬と「物」語るオブジェ〉2007年11月3日〜2008年1月14日
 福岡県立美術館
〈菊畑茂久馬の宇宙展〉2007年10月25日〜12月9日北九州市美術館
〈結成50周年記念 シリーズ「九州派再訪‐2」〉
 2007年10月30日〜12月27日 福岡市美術館

 福岡県美は特別企画展だが、北九州美と福岡市美の展覧会は、常設による展示であることは記しておく必要がある。菊畑の出身地(本籍は徳島)である九州でしか見ることが出来ないことが喜ばしい。須く中央中心になってはならないのだ。






連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也














連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也
















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也












連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●70年代のオブジェの時代を中心に
 福岡県美から記していこう。
〈菊畑茂久馬と「物」語るオブジェ〉風景
1950年代の九州派、60年代のルーレットの時代、80年代の〈天動説〉、2007年の〈春風〉シリーズと繋がるタブローの作品群の中で、唯一沈黙した70年代のオブジェの時代が既に1988年に北九州美術館、1999年に徳島県立近代美術館で公開されているにもかかわらず、「幻」とされてしまっている現状を打破するために企画されたとカタログに記されている。
〈菊畑茂久馬と「物」語るオブジェ〉風景





 展示は99体のオブジェのみならず、1964年の『ルーレット』3点、同時期の『植物図鑑』1点、『版画集オブジェデッサン』23点、『ブロンズのオブジェ』8点、『天動説』、『月光』各2点が並び、さながら回顧展の雰囲気も漂っていた。
 木、燃やした木、鉄、鉛、石膏、真鍮、石、ビニール、アルミ、ガラス、アルミニウム、銅、革、布、FRP、樹脂、発音器、レディメイド、シュロ、油彩、アクリル、ラッカーと、様々な材質を用いたオブジェがアクリルボックスの中で呼吸している。菊畑はこれらを何度も改良を重ね、幾つも異なるオブジェを掛け合わせて制作したという。その終わりには果てがなく、徳島県美に所蔵されることによって、作業を留めたようだ。徳島県美は1999年の展示にあわせて調査を行い、1999年の『徳島県立近代美術館研究紀要第5号』に報告を発表している。
 今回のカタログは、それに劣らないほどの充実したものになっている。オブジェの現在の写真、過去の写真は勿論のこと、菊畑の「オブジェノート」、福岡県美の川浪千鶴、徳島近美の吉川神津夫の論文、2007年版の調査目録、瀧口修造と今泉省彦のエッセイと、何度でも読み返すことが出来る「研究書」である。
この「書物」を通覧すると、菊畑が激しく木を燃やしたり、陶器を割ったり、何度も同じ作業を繰り返しては上手くいかないものを遠慮なく投棄することが伺える。それを吉川は「何かを作ると言うよりは、自らの意図の及ばない物の変化を観察するかのようなものであった」(カタログ120頁)と論じた。
 観察とは私的だ。様々な素材とは、菊畑の自宅の柱、所有する自動車、庭の動物を捕らえる罠などである。つまり菊畑は自己の「暮らし」をオブジェに込めた。吉川は以下のように解説する。「そうして生み出したオブジェを彼は「新たな自然」とも「原器」とも呼んでいる。…公開されたことによって初めて、美術の世界で「オブジェ」と呼ばれるものになったと言うこともできる」(同上)。
 鋭い考察である。そもそも菊畑がオブジェを制作した機運について、川浪は以下のように要約している。「絵を描くためにと答えているが、そこには、モノによって成り立つ「絵の仮構性を着実に検証」することと、50年代から60年代にかけて自らが体感した、素材の新奇さとアイデアだけを競うような、「絵空ごとの絵づくり」からの離脱が示されていた」。
 このような指摘を考慮に入れて、瀧口修造の『近代芸術』(1938年 三笠書房)を紐解いてみよう。この書物はキュビズム、ダダイズム、抽象芸術、シュルレアリスムといった様式論から、彫刻、物体、写真といった分野の問題、ピカソ、幻想、詩といった個別に対するエッセイで成り立ち、いたるところでオブジェについての言及が行われているのが特徴であろう。「現代彫刻の一断面」においては「オブジェは一種の「反彫刻」の現象と謂へるであろう」として、「オブジェの再発見は、結局、物体と意識との関係、物体の新たな象徴力の発生、ひいてはその新たな位置と構造とに、吾々の真実の眼を開かせるものであろう」(旧字を新字に改めた。以下同様。)と評価する。ここでいうオブジェとは、レディメイドや原始的自然物であろうと察することができる。
 「物体の位置」においてはシュルレアリスムのオブジェを「自然・原始人・数学的・発見された・災害・既成・動く・象徴機能」という八項目に分類して説明している。「象徴機能のオブジェ」とは、「その要素のメカニックな日常的効用性が最小限に還元され、幻想と無意識的行為によって惹き起される表現であること、そしてこの場合あらゆる私的現象(置換法や隠喩法等のプロセス)に似て、人間の欲望に一致することである」とする。「暮らし」に対する返還と拡大、「観察」という無意識的行動、「新たな自然」という欲望。菊畑の場合にぴたりと当て嵌まる。瀧口は「超現実主義の現代的意義」において、次のように続ける。「…私はここで、彫刻とまでは言わなくとも、オブジェ的なもの、或は多少とも審美的に移入された対象観は、わが国ではかなり活発に発達して来たことを注意したい、たとえば自然な対象に例をとれば、庭石、盆栽、盆石、生花等の鑑賞は異常な発達を遂げている。…吾々の祖先が、単に平面的な領野から立体的な領野にまで自由にその触手を延べて来たその造型的能力にあるのである。私はこの点でも、わが国の前衛美術は、西欧の造型美術の既成メチエの重壓の下にありすぎ、またそれを意識しすぎると思う」。「絵空ごとの絵づくり」、これこそ正に「西欧の造型美術の既成メチエ」ではないだろうか。これは菊畑が瀧口の宿題に立ち向かっているという私の仮説である。
 福岡県美のアクリル展示ケースは、40歳になったばかりの坂崎隆一が担当した。九州大学文学部で美術史や美術館学について学ぶ学生達が立ち上げた「AQAプロジェクト」というチームが、100枚の『オブジェカード占い』を作成し、展示会場内に設置、訪れた人々は御御籤を引くようにカードを持ち帰れることができる。AQAプロジェクトは、このカードのワークショップやギャラリートークなどのサポートを展開している。このような若手中堅が展覧会を支えていることに深い感銘を覚えた。







連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也









連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也

●シルクスクリーン版画を中心に
 北九州美術館では、同館が所蔵する『版画集オブジェデッサン』総て20点と、『月宮下絵』を3点展示した。静謐な版画展示室で、菊畑の作品は息を潜めている。北九州美のキャプションを引用する。
〈菊畑茂久馬の宇宙展〉風景


 シルクスクリーン版画の制作
 モノが本来的に持っている機能・属性よりもその材質や形などの造形性に着目する。固有の造形性をもつオブジェを組み合わせ、見方を広げ、新たな意味を創造する。今回展示したシルクスクリーンは、オブジェを写真に撮り、そこに手書きの描画が版画で加えられている。さらに、鉛筆によりドローイングや筆による彩色がほどこされ、より複雑さを増している。「オブジェデッサン」と名付けられたこれらのシルクスクリーンは、立体を平面の中に溶け込ませる作業のようで、そこには絵画とオブジェの新たな関係、意味が発生している。


 『版画集オブジェデッサン』は福岡県美でも展示されているが、北九州美とは版が異なる。この事情に関しても、福岡県美のカタログに詳しい。カタログには刷りの厳しさ―何度もやり直した―について言及がある。菊畑にとって『版画集オブジェデッサン』の趣旨は、「絵の仮構性を着実に検証」の延長であろう。しかしその徹底振りは、「延長」では済まされない。作品を見ていくと、例えば『三人の友』には目玉が、『卵の形の夢』には舌が、『花開く』では鼻という人体が用いられている。洗練されたデザイン感覚を見せながらも、初期イギリスポップアートが持つ残忍さを併せ持っている。








連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也

















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也


●ジャスティン・ジャスティーによる優れた考察
 〈九州派再訪‐2〉は、2006年5月23日〜7月9日まで同館で行われた展示の二回目である。「1」では結成前後から1959年までの25点、「2」は1960年から68年までの29点が展示された。二つの展示で重なる作家は、石橋泰幸、尾花成春、桜井孝身、田部光子であるが、時期が異なるため同じ作品が出展されることはない。
 
〈結成50周年記念 シリーズ「九州派再訪‐2」〉風景
九州派といえば福岡アジア美術館学芸員黒田雷児、福岡市美山口洋三が詳細な研究を繰り返しているが、ジャスティン・ジャスティーによる2007年7月「西日本新聞」連載の「九州派を追いかけて」(18〜20、23〜28日、全9回)が優れた考察になっている。
 ジャスティンはここで「英雄たちの大集会」の招待状から話を始め、現在のインタビュー、過去の調査、作品のディスクリプション/解釈/批評、男性中心主義の問題、高度成長期、詩人との関わり、地方性、無名性、展示空間の問題、教育者としての九州派、「英雄たちの大集会」へのオマージュ、解散後のメンバーの動向といった、九州派が持つ総ての特徴を網羅している。
 
〈結成50周年記念 シリーズ「九州派再訪‐2」〉風景
この記事を頭に入れて会場を赴く。多種多様な作品群が並んでいる。ジャスティンが指摘するように、とても同じグループとは思えないほどの多様性だ。「西欧の造型美術の既成メチエ」が一切感じられない。作品一つ一つが、個々の探究に満ち溢れているのだ。福岡に行く数週間前、兵庫県立近代美術館常設展で「ゲンビ」をみたのだが、そこにあった西洋への憧憬と模倣が全く見られない。この点は山口洋三が指摘するように、「地方性」ではなく桜井の発想なのであろう。「桜井は、このシステムと、「美術とはなにか」という問題を別々に考えていたという。つまり、「美術家」になるためには公募展で入選さえすればよく、そこに「美術(芸術)」の問題がどのように潜んでいるかは問わないのだと認識していたようである」(「九州派再訪-1」リーフレット)。
 今回、菊畑の作品は『葬送曲No.2』(1960年)が出展されていた。現存する菊畑作品の最古のものである。リーフレットによると、素材はアスファルト、ペンキ、陶器であり、支持体は段ボール・板と表記されているが、石膏のようなものも使われているのではないかと感じた。杓文字状の陶器は、菊畑1957年制作『ポロックに捧ぐ』に見える鱗状のマチエール、1961年制作『奴隷系図』のコイン、その後のルーレット、オブジェ、『月光』シリーズの盛り上がったマチエールという姿で、綿々と探究されているのではないかと私は仮説を立てている。この研究も、稿を改めることにしよう。





連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也
















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也
















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也

















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也





















連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也




●「九州派」時代の作品よりも凄みが増した桜井

 B〈桜井孝身+中村順子二人展〉2006年9月12日〜18日(月)福岡市美術館
 
 〈九州派再訪‐2〉が展示されている福岡市美術館で、14ヶ月前に行われた〈桜井孝身+中村順子二人展〉を報告する。
〈桜井孝身+中村順子二人展〉風景

 1928年生れの桜井は1955年「九州派」を結成するが、1965年3月10日に渡米、この年の8月3日〜8日に福岡県文化会館で行われた〈九州派展〉会期中にリーダーである尾張猛が「九州派」解散を決めた。
 1967年10月11日に帰国した桜井は翌年個展を開催し、1969年5月3日〈万博破壊九州大会〉に参加する。この様子は平田実『ゼロ次元―加藤好弘と60年代』(2006年 河出書房新社)に収録されている写真で追うことができる。1970年10月13日〜18日の個展(福岡県文化会館)が終了後再度渡米、サンフランシスコで「コンニャク・コミューン」を開催する。1973年、フランスへ移る。
 今回のカタログの年譜をみるとその後の活動は、パリ、東京、福岡を往復している模様だ。フランスの様子については僅かだが、秋山祐徳太子が1978年初夏にパリへ赴いた際の記録に掲載されている(『ブリキ男』2007年2月 晶文社 186頁)ので引用しよう。

 
パリには、櫻井孝身シェンシェーが、郊外のバニューというところに住んでいた。こう書くと、いかにもパリの地理に詳しいようだが、ほんとうは何も知らない。ともかくカンヌからパリに帰って、一人で櫻井さんの家を探すことにした。これがまた大変だった。
 パリジャンに、やたらメトロ、メトロと叫んで切符を買ってもらったりして、やっとバニューの駅にたどりついた。勘をたよりに歩いていくとアトリエがあった。中をのぞくと絵を描いている男がいる。フランス語はわからないので、なんでもいい、「アロー・ムッシュ・ジャポーネ・ペインター」と訊ねたら、すぐに日本人がいるというアトリエを教えてくれた。表札は出ていない。かまわず階段を降りていくと、櫻井シェンシェーがいた。「いやあ、ようわかったのう。三十数人もここを訪ねて来たが、辿り着いたのはあんたともうひとりの二人だけだ。よく見付けたものだ」と驚いていた。
 櫻井さんはまもなくサンフランシスコに旅立ち、世界的な前衛美術家の工藤哲巳さんもベルギーに行っていて会えなかった。櫻井さんの息子と一緒に、しばらくここにお世話になることにした。


 桜井がパリで日本人との交渉をあまり持たずに活動していたこと、パリと日本だけではなく世界中を回っていたことが伺える。海外での桜井の動向は、フデリック・ホシノ夫人著『櫻井孝身1959-1980』(1980年 櫂歌書房)と、桜井孝身編『I REVOCSID JESUS CHRIST IS A WOMAN』(1987年 櫂歌書房)という電話帳のような自主出版の本が12冊ある。
 この電話帳シリーズは著作権どころか「九州派」「桜井」に関することであれば、全て右閉じ左閉じ上下左右までも無視して桜井が編纂したもので、「売れないし、重くて郵送も出来ずに部屋を占領していて困っている」と桜井自身が語った代物である。私はこの会場において桜井から『I REVOCSID JESUS CHRIST IS A WOMAN』と『パラダイスへの道』(1988年)、『パラダイスへの道92』という計三冊を謹呈されたが、天神に運ぶまででも手が千切れるのではないかと思ったほどだ。郵便局赴き、速攻で郵送したのは言うまでもない。
中村順子 「コスモス」

 これらの著作を詳細に検討すれば、桜井の海外における動向を追うことは可能であろう。この研究もかかすことはできまい。同じくカタログによると、中村は1970年渡米、1971年「コンニャク・コミューン」、1973年フランスに移るとあるから、桜井と行動を共にしていたのであろう。桜井、中村にとって日本での個展は1988年の画廊春秋以来だから、凡そ20年ぶりになる。1989年にはベルギーのECLECTICギャラリーで個展、1992年にはパリで桜井の企画展、同年にはスイスで、1994年にはニューヨークで、2000年はパリで個展を開催している。ここで発表した作品に加えて2004年に制作を「開始」した桜井の作品が、大部屋に14点並ぶ。同じく大部屋で中村は、1990年代から現在までの作品8点を展示した。小部屋の壁面に桜井は小品を9点、中村は6点飾った。
桜井孝身 「天使たち」

 
桜井孝身 「オブジェ」
桜井の作品はミクロからマクロへ、中村のそれはマクロからミクロへ向かっているように感じた。中村の『ナスカシリーズ』(2006年)は、見ることによって炎が点火し飛び立つイメージがある。『コスモス』(1998年)というインスタレーションは、全体を把握することが不可能だ。だからこそ、見るものは細部に向かって自ずと視線を放つことになる。
 桜井の作品と気軽に接してはいけない。「九州派」時代の作品よりも凄みが増している。目を細め、自己を奥底(=深淵)に追い込んで「感じよう」と努力すると、作品は静かに動き出してくる。様々な作品に書き込まれた「眼」が、見るものを「見て」いる。『天使』(1996年)や『パラダイス』『2001年』に描き込まれた翼を持つ人体の手足は蠢き、空を彷徨う。ここにも「動作」は内在化されているのだ。
 特に木枠を組み合わせて絵画が派生している『オブジェ』シリーズは、先に考察した瀧口修造の定義する「オブジェ」の何物にも当て嵌まらない。そのフォルムが人体そのものに生り、この人体そのものがオブジェと化す、戦慄の走る作品である。この作品群はパリで展示し、日本に持って帰ってきたという。同展のカタログと実際に展示されている作品を会場内で較べると、どこか違う。桜井に聞けば、未だに作品に書き加えているという(!)。現在の素材はジュート、セメント、アクリル、水彩、油である。昔は何でも混ぜた、メリケン粉を混ぜたら腐った、ボンドで付けて、はがれてもまた付けたという。菊畑もオブジェを何度も作り変えた。この執拗さにも、九州派の秘密が隠されているのであろう。
ジャスティンは桜井の『ハリツイタ顔』(1957年)に、「作品の完結を拒むように、反復・生成は永遠に続く」姿をみつけた(連載4)。この指摘は的確である。桜井の作品は、次に出会った時にはどのように変化しているのだろうか。桜井の今後の展示が待ち遠しい。






連載記事
「見守る」から「戦う」へ
宮田徹也

●連載を振り返って
 当初立てた五つの目標を考察し尽くすことは出来なかった。それどころか、敗戦後を原始時代に置き換え、現在分離している美術と舞踏の世界を結び付けるまでには到らなかった。それは現在、美術は美術、舞踏は舞踏と見る側も見られる側も住み分けられてしまっていることも要因に挙げられる。敗戦後美術を見詰めるには、この二種を等価に見る視点を持たなければならない。この観点こそ、これからのこの国の芸術を見極めるために必要となるのだ。

その代りに、今後の私の課題は多く生れた。箇条書にする。

@ 連載のスタイルで作家を追う。
A 未知の作家を発掘する。
B 失われた作家を研究する。

 連載はこれで終了する。しかし、作家の活動に終りはない。これからも「戦後美術」と呼ばれる、作家が生み出す作品を、「見守る」のではなく、「戦って」行きたいと思う。     (了)
 

■ 宮 田 徹 也 (みやた てつや
 1970年、横浜生まれ。1992年、高校中退。2002年、横浜国立大学大学院修士課程修了。修士論文を「百済観音考」と題し〈日本美術史〉形成の過程を追い、この論考を2004年、明治美術学会で発表。
 また、「イマージュオペラ」「畳半畳」から身体に興味を抱き、ダンス・舞踏・パフォーマンスに対する論考を「ダンスワーク」56(2005年)、57(2006年)号に発表。
 現在は、〈日本戦後美術〉と〈舞踏〉に焦点を絞り、敗戦後の日本における芸術の動向を追う。最近は雑誌「トーキングヘッズ叢書」でダンスの記事を連載し、『池田龍雄画集』では「参考文献表」を担当。

Copyright (c) 2007 Art Village All rights reserved.