宮田徹也氏による新連載 
  
      第四回
ー飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり―
 宮田徹也(日本近代美術思想史研究)


第一回  第二回  第三回 第五回 第六回
第4回 (2007年)7月26日













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「動作」からの出発
飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
宮田徹也
























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飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
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飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
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●テーマ展に見る戦後美術の解釈
 前回の連載後、敗戦後美術に関わる展覧会が多く行われた。

〈笑い展:現代アートにみる「おかしみ」の事情〉2007年1月27日(土)〜5月6日(日)森美術館(赤瀬川原平、靉謳、オノ・ヨーコ、中西夏之、ハイ・レッド・センター)
〈絵画が語る 1945±15―平成19年度第1期収蔵品展―〉2007年4月17日(火)〜8月2日(木)世田谷美術館(飯野農夫也、師岡宏次、向井潤吉、宮本三郎、中谷泰、牛島憲之、南大路一、難波田龍起、森芳雄、朝妻次郎、小山田チカエ、利根山光人、間所沙織、池田龍雄)
〈世田谷時代1946〜1954の岡本太郎―戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流―〉2007年3月24日(土)〜5月27日(日)世田谷美術館(岡本太郎、山口長男、桂ゆき、吉原治郎、吉仲太造、間所(芥川)紗織、村上善男、ジャン・アトラン、村井正誠、長谷川三郎、末松正樹、安部展也、桂川寛、勅使河原宏、池田龍雄、北代省三、山口勝弘、福島秀子)
〈青山時代の岡本太郎 1954-1970 現代芸術研究所から太陽の塔まで展〉2007年4月21日(土)〜7月1日(日)川崎市岡本太郎美術館(石元泰博、篠田桃紅、藤沢典明、間所(芥川)紗織、吉仲太造、多賀谷伊徳、巽勇、水谷文平、村井正誠、品川工、吉田遠志、昆野恒、吉田千鶴子、難波田龍起、南大路一、伊藤萬、赤穴宏、池田龍雄、早川晶(昌)、山口勝弘、岡本太郎、川口軌外、小牧源太郎、杉全直、利根山光人、福島秀子、浜田知明、山口長男、山口薫、カレル・アベル、ピエール・アレシンスキー、ジャン・アトラン、ハンス・アルトゥング、ジョルジュ・マチウ、ジュゼッペ・カポグロッシ、マーク・トビー、ジャン=ポール・リオベール)
〈明日の神話―特別公開―〉2007年4月27日(金)〜2008年4月13日(日)東京都現代美術館(岡本太郎、モーリス・ルイス、マーク・ロスコ、今井俊満、吉原治良、白髪一雄)
〈近代日本美術を俯瞰する―開館記念特別展〉2007年4月28日(土)〜2007年7月8日(日)横須賀美術館(鶴岡政男、三上誠、愛嘔、石井茂雄、池田龍雄、向井良吉、山口長男、川端実、白髪一雄、元永定正、菅井汲、堂本尚郎、オノサト・トシノブ、村井正誠、中西夏之、麻生三郎、野見山暁治、林武、山口薫、森芳雄、小山田二郎、島田章三、猪熊弦一郎、金山康喜、木内克、柳原義達、井上武吉、堀内正和、最上籌之、江口週、斉藤義重)
〈澁澤龍彦―幻想美術館〉2007年4月7日(土)〜5月20日(日)埼玉県立近代美術館2007年10月6日(土)〜2007年11月11日(日)横須賀美術館(武井武雄、初山滋、瀧口修造、桑原甲子雄、中谷忠雄、秋吉巒、加山又造、土方巽、藤野一友、土井典、横尾龍彦、奈良原一高、中村宏、堀内誠一、加納光於、細江英公、川田喜久治、池田満寿夫、宇野亞喜良、中西夏之、高梨豊、金子國義、野田弘志、横尾忠則、谷川晃一、野中ユリ、唐十郎、合田佐和子、篠山紀信、山本六三、高松潤一郎、川井昭一、島谷晃、四谷シモン、佐伯俊男、城景都、小林健二、他)
〈澁澤龍彦の驚異の部屋〉2007年4月7日(土)〜5月20日(日)ギャラリーTOM(池田龍雄、大月雄二郎、加納光於、桑原弘明、合田佐和子、アンティエ・グメルス、鈴木真、建石修志、谷川晃一、中西夏之、四谷シモン)
〈《写真》見えるもの/見えないもの〉2007年5月29日(火)〜6月17日(日)東京藝術大学大学美術館陳列室(石田裕豊、今井智己、内田亜里、榎倉康二、江原隆司、大辻清司、小原真史(映画上映)、小山穂太郎、佐藤時啓、佐野陽一、椎木静寧、柴田敏雄、杉浦邦恵、鈴木理策、仙谷朋子、田口和奈、中里和人、中山岩太、横湯久美)
〈大辻清司の写真〉2007年6月5日(火)〜7月16日(月)渋谷区立松濤美術館
〈鶴岡政男展〉 2007年4月14日(土)〜6月17日(日)群馬県立館林美術館2007年6月30日(土)〜9月2日(日)神奈川県立近代美術館
〈虹の美術館の軌跡〉2007年5月23日(水)〜7月8日(日)静岡県立美術館(靉嘔、瑛九、池田満寿夫、磯辺行久、飯田昭二、小池一誠、鈴木慶則、丹羽勝次、前田守一、関根伸夫、李禹煥、高松次郎)

 いずれもテーマを持っているので、敗戦後美術の俯瞰的立場からは展示されていない。しかし「戦後美術」が現在どのように認識されているかについては、問題点が浮き彫りになる。
〈笑い展〉ではフルクサスとハイ・レッド・センターを、現代美術の「古典の歴史」という認識で捉えている。当時のハイ・レッド・センターにそこまでの影響力があったのかは疑問だが、一つの解釈としては成り立っている。〈絵画が語る 1945±15〉の最後の部屋では、無所属で当時はアートクラブやアンデパンダン展に出品していた池田龍雄の『現場』(1958年/91.0×183.0/和紙・ペン・コンテ・水彩)という黒く暗い作品の上部に、池田と行動が重なっていた間所紗織の明るく激しい動きを内在化する『古事記より』(1957年/176.0×1346.0/布・染色)が展示され、向かい側には日展作家、牛島憲之の『朽ちる船』(1960年/90.0×145.5/カンヴァス・油彩)が展示される。この違和感こそ、当時の一つの現実であるということもできる。
〈近代日本美術を俯瞰する〉においては、明治時代から2007年の今日まで一気に駆け抜けた。この展覧会は所蔵品が中心になっている為、または展覧会名「俯瞰する」の通り全体像を見渡そうとしている為、このような展示になったのであろうが、神奈川県立近代美術館や東京国立近代美術館が展示している常設の歴史観に見慣れている者にとっては、新鮮な感触を与えることに成功しただろう。
 澁澤龍彦をめぐる二つの展示は、敗戦後美術というよりも、澁澤個人と作家の関係性が浮かんで見えてきた。澁澤=文学者/批評家/思想研究者からの視点も、見逃さずに今後の考察に入れていかなければならない。
〈《写真》見えるもの/見えないもの〉は、1895年生まれの中山岩太から1980年生れの江原隆司までという大きく年代が離れた作家が集まったにもかかわらず、それを全く感じさせないフラットな「写真」の展示となった。歴史性を排除し、作品のみを見せる方法論は、これからの常識になっていくのかもしれない。
 岡本に対する展示が連続したが、特に川崎市岡本太郎美術館では、1956年の〈世界・今日の美術展〉を再構成した点が注目に値した。この展覧会は日本に始めてまとまったアンフォルメル作品が到来したという伝説を持つが、ここにある岡本の作品はいずれにも似ない。そこに気がついて他の外国の作品と岡本のそれを比較すると、岡本の独自性がはっきりとしてくる。この独自性については、既に花田清輝が当時に指摘している。岡本に対する考察から避けて通れない実状を実感した。
田中信太郎 「Heliotrope-3」 
紙・銅線・銅板 80×57p 2007年

 美術館では当然のごとく、新作の展覧はない。今回、特に眼を引いたのは、ギャラリー58における〈風倉匠・田中信太郎・吉野辰海ドローイング展〈消える絵画・ヘリオトロープ・スクリュー〉〉(2007年6月4日(月)〜23日(土))であった。風倉は現在療養中といえども1999年の作品を展示、田中と吉野は新作である。古臭い感触等一切なく、血気盛んな中堅がバリバリと制作をした作品ではないかという錯覚まで引き起こした。作品はもちろん、このような展示ができるスペースは重要である。
風倉匠 「消える絵画-1」 
感光紙・酢酸液・光・アクリル 61×44p 1999年
吉野辰海 「Pepper dog(bucket)」 
紙・鉛筆・水彩 50.7×35.6p 2007











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飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
宮田徹也


















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飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
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●絵画的要素を多く含んでいる飯田の立体
 現状を報告した。これからは〈飯田善國展〉(2006年9月30日(土)〜11月26日(日)町田市立国際版画美術館)、〈眩暈の装置―松本俊夫をめぐるインターメディアの鉱脈〉(2006年9月16日(土)〜11月26日(日)/川崎市市民ミュージアム)という、既に終了した展示を振り返る。
 飯田善國は2006年4月19日、享年82歳で逝去した。アトリエがあった町田から、故郷のある足柄市美術館(2007年4月14日(土)〜6月10日(日))を巡回した展示は遺作展であった。この連載で取り上げるには相応しくはないのだが、飯田の活躍、特殊性、作品の強さによって取り上げる必要性が生れたのであった。
展覧会は以下の構成になっている。
プロローグ
T.ウイーン留学時代(1958-63年)の銅版画を中心に
U.詩画集『クロマトポイエマ』(1972年)とその周辺―言葉・色・かたち
V.『M.M.曲面シンドローム』(1992年)―マリリン・モンローは微笑む
W.『うしなわれないことば』(1994年)から最後の版画へ
「プロローグ」では、飯田が1955年に描いた『戦争A』『戦争B』(共に油彩、コラージュ、カンヴァス/162.7×130.0cm)が展示されている。T.では油彩やデッサン、立体とそのスケッチもあるが、主に版画の小品が占めている。U.で立体はわずか3点、V.とW.は版画と水彩のみになっている。
 飯田は著作にもあるとおり、活動の初期は画家を目指しながらもウイーンにおいて「彫刻家」へ転換した。その立体作品が少ないからこそ、飯田の「敗戦後美術作家」としての側面が見えてくる。
飯田善國 「宇宙的な泡」

 例えばT.に展示されている『宇宙的な泡』(1958年頃/油彩、カンヴァス/80.7×100.2cm)と『星雲の花園』(1959年/油彩、カンヴァス/97.2×130.5cm)に眼を投じる。
 二つの作品の構図は、とても似ている。しかし立体的な人体と地を表す背景が特徴である『宇宙的な泡』に対して、後に描かれていると研究されている『星雲の花園』は立体的というよりも動作が込められている。飯田にとって絵画を絵画化することが、立体に対する思考の転換になったのではないか。飯田の立体をみると非常に絵画的要素を多く含んでいるし、ここに展示された『M.M.曲面シンドローム』、『うしなわれないことば』という版画の立体的要素を注意深く観察すると、絵画である事と立体である事の区別がつかなくなっていく。
飯田善國 「星雲の花園」

 「見る」と言う作業は、常に二次元的になってしまう。それに対して飯田が持つ最大の特徴、「言葉」をここに差し込むと、イメージを空想するというよりもむしろ人間がみる物を「創出」しているということができるのではないだろうか。この点において、飯田作品の独自性を抽出した展覧会であったとみることが可能である。





















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飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
宮田徹也



●詩を「作品」として、著作を「評論」として読み解く必要性
 ここから、連載の始めに挙げた項目に、飯田を当てはめてみよう。
@「日本戦後前衛美術」の名称
 飯田の著作『彫刻家』(岩波新書/1991年)に、「戦場の記憶」という項目がある。1923年に生れた飯田は20歳から23歳まで、戦争体験をした。「学徒」ではなく、「小大尉」である。この時の記憶を飯田は「懺悔」でも「憎悪」でも「歓喜」でもなく、黙々と綴っている。池田龍雄は特攻隊を経験し、針生一郎は結核の為、出陣はなかった。飯田の記述から「戦後」を読み取るべきか、「敗戦」を読み取るべきか。この点について、未だ判断できない。同時に「前衛」という語彙も、飯田に当てはめる事ができるのだろうかという疑問が生ずる。
敗戦後の前衛美術運動が盛んだった時期、飯田はウイーンにいた。1967年に帰国し、1969年に日本で初の彫刻個展を開催する。1970年の大阪万博にも出品し、その後は海外での展示のほうが多い。1953年2月の〈第五回日本アンデパンダン展〉(読売新聞主催)に出品し、1955年、制作者懇談会に参加することがよくピックアップされるが、飯田の作品には驚くほど当時の作品とのリンクがない。それよりもイサム・ノグチの作品のように海外では見られていたのではないかと憶測する。すると次の問題が生じてくる。
A戦後前衛美術の日本的特徴
 池田龍雄、加藤好弘と、これまでに取り上げてきた作家は皆、戦争への介入が幼年の時期の作家であった。イサム・ノグチはもちろん、鶴岡政男、山口薫、村井正誠らは自由美術協会の作家でありながらも、「前衛」と「日本的特徴」を多く孕んでいる。
この戦争青年体験組と、戦争幼年体験組に差はあるのだろうか。もちろんある。この点については針生一郎がインタビューの形式で多くの作家に語らせている(針生一郎他評論家/作家/デザイナー等複数執筆者/対談者「現代日本の美術の底流」/「美術ジャーナル」No.31〜No.59/1962年7月号〜1966年11月号/全29回連続特集/美術ジャーナル社)。しかしこのインタビューすらも今から見れば「歴史」に組み込まれてしまっているため、もう一度読み直す必要性があるだろう。
B西洋近代との関わり
 それは針生自身もこの「西洋近代への関わり」を超克するために必死になりながらも、その渦中に身を置いていたことに気がつかなかった為でもある。飯田にとっての西洋近代との関わりは、梅原龍三郎と猪熊弦一郎というひたすらこの問題に対してドライな師に絵画を教わったことを考えると、相当に「日本的な美術」を考察せずに、「国際的な作品」を目指していたのではないかと憶測する。
Cなぜ海外へ赴いたか、なぜ国内に留まったか、国際的視点をどれだけ必要としてきたか。
 それは飯田が偶然にも小説家・野上彌生子と関わり、その世話になってイタリアへ留学した事実にもあるだろう。返して言えば飯田はチャンスがなければ留学を考えていなかったし、留学することによって彫刻家に転身することもなかった。
D団体展との関わり
 それはこの問題にも関与してくる。梅原、猪熊とのラインを持ちながらも、日本アンデパンダンに出品し、制作者懇談会とも深く関わらない。あれだけ多くの著作を持ちながらも、同時代の「現代美術」、今で言われる「戦後美術」についての記述は少なく、もっと前のピカソ、クレー、クリムトらを執拗に語り、瀧口修造、澁澤龍彦よりも西脇順三郎に傾倒する。
 このように飯田に対する考察を続けると、非常に混乱してくる。それだけ特殊であるからこそ、今後の研究を進める気持ちが高ぶる。
 飯田を考察するに際して、最も重要な点は、池田龍雄や山口勝弘に匹敵する、飯田の著作の多さである。既に同展カタログで「飯田は西脇の形而上学、詩の論理を、あくまで美術家として、制作理論、画法へのヒントとして捉えていた」(青木健「「原型」へ向かう意思」)ことについては指摘されているが、もっと単純に、作品と飯田の詩の比較考察もできると思う。
 例えば版画集『うしなわれたことば』(1994年/シルクスクリーン/79.5×109.5cm)の中に、《DOG-GOD》という作品があるが、これは「犬神→DOGとGOD」(「かたちとことばの旅」「現代詩手帖」1990年4月号)を読むだけで、もっとおもしろく見る事ができるようになる。または詩を徹底的に「作品」として読み解く必要性も出てくるであろう。そして、飯田の著作を「評論」として真剣に付き合う必要性も出てくる。何をもってエッセイとし、何をもって評論とするのか。この混沌にも、身を委ねていかなければならないだろう。

















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「動作」からの出発
―池田龍雄の場合―
宮田徹也



●技術を誇ることなく、メディアとは何かを問いかけてくる松本俊夫
 文章を多く書く作家といえば、松本俊夫も同様である。松本は批評家志願であった。それが映像作家になった。最後に簡単に松本の場合を報告する。
 松本俊夫(1932年生まれ)は、1950年代から現在まで様々な映像の実制作のみならず「前衛記録映画論」を代表とする理論家としても知られている。川崎の展示は松本の新作とこれまでの資料を中心に、松本作品のコンセプトでもある「眩暈」にまつわる現代作家を加えて行われた。ここでは松本のインスタレーションのみを取り上げる。
 メディア美術は最先端技術、即ち国の水準を示す万国博覧会的ナショナリズムに容易に結び付く。しかしこの展覧会は技術を誇ることなく、メディアとは何かを問いかけてくる。
資料の部屋では、「記録映画」「劇映画」「実験映画」「インターメディア」という項目ごとにポスター、パンフレット、雑誌、書物、グラフコンテ、絵コンテを用いて簡潔に松本の仕事を追っている。
松本俊夫 「物語はかくしてつくられる」 2006年 
撮影:川崎市民ミュージアム

 展示室は二つあり、1つは「ディシミュレーション(遺作)」というビデオ作品で、普通のテレビに上映され、松本自身が出演し、死者への追憶、自己の歴史、死への予感をモンタージュによる森や河原の散策、祭の風景で積み上げる。このテレビの奥に、『物語はかくしてつくられる』という作品がある。およそ5メートル四方の空間に、直径1・5m程の砂と石と貝殻で出来た円状の場が形成され、事故現場にある人型の白チョークのようなラインが引かれている。その大きさは1mに満たないが、手足の比率から考えると子供ではなく大人の縮小版に見える。六台のテレビが床置きされ、水平線を中央に設置した海の映像が流れ、スクリーンを張らずに壁に直接、松本の過去の作品がぼんやりと映し出されている。この作品を見続けていると総てが具体的であるにも関わらず、意識が「眩暈」へ向かう。
 松本は「美術家」ではないのだから、5つの項目には当てはまらない。すると、「美術とは何か」という自身の問いが転覆してしまう。今の私に、松本に対する考察を続ける知識が余りにも足りなすぎる。ここでは展覧会評を示す事に留め、「映像」を含めた広い視野からの考察を今後の課題としたい。














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「動作」からの出発
飯田善國再考と松本俊夫への考察の始まり
宮田徹也



●自らの研究の実践
 私は敗戦後美術研究を実践するため、〈グループ〉幻/実(げいじゅつ)を組織した。かつて瀧口修造がさまざまな画家を集めたように、澁澤龍彦が土方巽と語り合ったように。「土方巽とその美術」という分類では、その真髄に届かないのは私の連載を読んでいただければ分かるとおりである。
パフォーマンス風景   撮影:小野塚誠

 メンバーは絵画・稲葉有美、立体と絵画・相原康宏、舞踏・夕湖、舞踏・穢園、インストラクション・宮田である。第1回展は、2007年6月18日〜23日、ギャラリー代々木で行われた。月曜日は夕湖・穢園・宮田、火曜日夕湖・宮田、水曜日夕湖・穢園、木曜日穢園・宮田、金曜日穢園・宮田、土曜日全員と、毎日、目標を達成した。グループの主張を理解して企画展にしていただいたギャラリー代々木は、今後、タケミヤ画廊のような存在になるだろう。

 宣言文の一部を転載する。
宣言
日本敗戦後前衛美術は終わっていない。現在、芸術の為の芸術は壊滅し、資本主義のための「アート」が蔓延っている。この現状を打破し、近代的芸術至上主義/作家作品中心主義/自己愛志向主義ではない、真の芸術の探求を行なわなければならない。死に堪えたと認識されている日本敗戦後前衛美術運動が持つ血液を、沈黙したと思われているその血流が受け継がれていく情念を、今こそ覚醒させ我々の体内に注ぎ込むのだ。
稲葉有美は分裂により、シュタイナーの神智学/クレーの神秘学/クローリーの美学が到達すべき色彩を、容易に手中に収めている。それでも光は集約せず、未だ互いに彷徨い続け、しかも画面に安定し帰着し生き続けることを求めていない。
共通するのは、幻想的なモチーフを使いながらも決して幻惑するような抽象性に走らず、常に人間が持つ現実的内面の奥底に訴えかけていく点にある。この四者が渾然一体になった時、これまでに見たことがない、しかも原初的な、即ち時空を横断した、〈現実〉でも〈幻想〉でも〈ある/ない〉芸術=〈幻/実〉を生み出すことになるだろう。

 美術作品の前で舞踏を行なうだけでは、原初の姿に近づけない。公演中、宮田はうろついて見る者の視線を遮り、「公演/舞台」という近代的産物を破壊する。稲葉と相原は舞踏どころか、鑑賞者すらもデッサンする。鑑賞者はデッサンすること、飛び入りすることも許される。混沌となりかけた第1回展だが、これからさらなる挑戦を心がけていきたい。

■ 宮 田 徹 也 (みやた てつや
 1970年、横浜生まれ。1992年、高校中退。2002年、横浜国立大学大学院修士課程修了。修士論文を「百済観音考」と題し〈日本美術史〉形成の過程を追い、この論考を2004年、明治美術学会で発表。
 また、「イマージュオペラ」「畳半畳」から身体に興味を抱き、ダンス・舞踏・パフォーマンスに対する論考を「ダンスワーク」56(2005年)、57(2006年)号に発表。
 現在は、〈日本戦後美術〉と〈舞踏〉に焦点を絞り、敗戦後の日本における芸術の動向を追う。最近は雑誌「トーキングヘッズ叢書」でダンスの記事を連載し、『池田龍雄画集』では「参考文献表」を担当。

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