宮田徹也氏による新連載 
       第二回ー池田龍雄の場合―
 宮田徹也(日本近代美術思想史研究)


第一回 第三回 第四回 第五回 第六回
第2回 (2007年)2月13日










連載記事
「動作」からの出発
―池田龍雄の場合―
宮田徹也



●池田龍雄の今日の仕事に注目
 この連載を開始してから、尾崎信一郎「身体と場―日本の戦後美術におけるアクション」(〈アクション―行為がアートになるとき〉展カタログ 東京都現代美術館 1999年)という重要な論文を読んだ。
 ここにおいて尾崎は「欧米圏に対する極東という地域の逸脱」と「フォーマリズムからの逸脱」というモダニズムからの二重の逸脱こそ「日本の現代美術の歴史をかたちづくっている」とし、「持続的オートマティズム」と「連想的オートマティズム」という概念を提唱し、「アクションという視点から検証してみるならば、それが身体と場というきわめて具体的な問題を中心に展開され、西欧の現代美術とは全く異なった美術の在り方を示唆している点が明らかとなる」と結論づけている。
 この論文から教えられる点は多々ある。実際の現代の作品をどのように見るのかを示すことが、先ず私が自己に課した課題である。
 2007年が始まり、1月から多くの戦後近代美術にまつわる展覧会が行われている。2006年12月から1月まで千葉市美術館で開催されていた〈サトウ画廊1955−1981〜若く、熱い日々〜〉展は、たとえ所蔵品からの紹介としても作品を作家個人への括りに還元していまい、それは時代性どころか素材に対する探求も覆い隠してしまった。
 ギャラリー環における〈菊畑茂久馬個展〉(1月10日−27日)は、まるで小料理屋にでも似つかわしそうなサイズの上品な小品を展示し、かつての趣を失っている感がある。
 しかし一階に展示された静謐で凍りついたような油絵と、二階を支配している荒々しい水彩の世界観は対極であるからこそ共通項が満ち溢れ、菊畑でしか実現できない絵画が巨大な作品の発生を待ち望んでいるかのごとく感じた。
 東京都現代美術館では、〈中村宏−図画事件1953−2007〉が開催されている(4月1日まで)。絵画を中心に現在までの中村の軌跡を追っている。この内容については、後の回で報告する。
 中村ももちろんだが、現在に至っても全くその活動のペースが落ちない池田龍雄の場合を今回は検討する。
 池田を取り上げる理由とは、過去のペン画や現在では「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる作品ばかり評価されて、今日の仕事に見向きもされていない点にある。
 多種多様に展開していると見られている池田の活動とは、実はその当初から現在に至るまでのおよそ60年間、一貫した姿勢から制作されている。つまり現在の池田の作品には、敗戦後直ぐに活動を開始した日本の既成団体ではない美術家、というテイストがまだ多く含まれているのだ。











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「動作」からの出発
―池田龍雄の場合―
宮田徹也


















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―池田龍雄の場合―
宮田徹也




















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―池田龍雄の場合―
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●2006年の池田の活動を、二つのポイントから検証
 池田は1928年佐賀県生まれ、1948年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)入学、1949年安部公房、岡本太郎、花田清輝らのアヴァンギャルド芸術運動に参加「世紀の会」加入、以後、幾多のグループを経て現在も活動している。主な著書に『絵画の距離』(創樹社)、『夢・現・記』(現代企画室)、『蜻蛉の夢』(海鳥社)、『芸術アヴァンギャルドの背中』(沖積舎)がある。パブリックコレクションは国立近代美術館、東京都現代美術館、国立国際美術館等を含めて30を越す。
 まずは、2006年の池田の活動を羅列する。便宜上番号を振り、○印は旧作を買い取った美術館なり画廊が行った展示、◎印は新作及び講演会等の活動と分別する。▲印は不明であることを示す。
 ○〈封印された星〉展(ギャラリー椿2月−3月11日)に過去作品BOX1点、平面3点を出品。
2 ◎〈葉描(はがき)アート展06〉(GINZAアートスペース3月6−11日)にメールアートを三枚出品。
3 ○個展〈走図―萬物芻狗―+大芸術瞥見函〉(ギャラリー58 3月13日−4月1日)を開催。
4 ◎その一環として、3月25日に「絵画(ニジゲン)と時間(ヨジゲン)」と題した講演会を行う。
5 ◎美学校ギグメンタ「現代日本美術の岐路―内海信彦(画家)×池田龍雄(画家)×田中三蔵(朝日新聞編集委員)トーク―」(美学校4月16日)
6 ◎横浜ZAIMにおけるオープニング・フェスティバル(4月29日−5月7日)に参加したCHAOSMOS冨岡雅寛氏の展示に、「池田龍雄+CHAOSMOS」(5月6日)として『梵天の塔』を用いて客演した。
7 ▲〈ガラティア・セッションU〉(ギャラリーガラティア・ファーイースト6月)に『稲の柩』など三点出品。
8 ◎「第118回キノ・バラージュ『池田龍雄と映画』」(阿佐ヶ谷美術専門学校7月1日)にゲストとして参加(聞き手は美術評論家・西村智弘氏)。
9 ○〈いろんな顔?あんな顔?こんな顔〉(7月22日−8月18日山梨県立美術館)に『出口のない貌』(1959年インク、木炭、水彩・板 136×91センチ)が出展される。
10 ◎〈2006年横浜ノーウォー〉展(神奈川県民ホールギャラリー8月14−20日)に2メートルを超える作品、『場の位相=戦場』(二点組)を出展。
11 ◎『池田龍雄画集』(沖積舎8月15日発行)刊行。
12 ◎〈風倉匠個展〉(ギャラリー58 9月4−23日)におけるオープニングトークショー、「伝説の風を見る」(9月4日)において、池田龍雄は美術家・吉野辰海と共に「聞き手」として参加するはずだったが、話し手の風倉が体調不良の為、急遽二人のネオダダについての「対談」となった。
13 ▲〈今日の反戦展2006〉(丸木美術館9月9日−10月21日)のオープニングイヴェント、「相互批評会」(9月9日)にパネラーとして美術評論家・針生一郎と共に参加。
14 ◎「内海信彦オータムセッション2006−分断された芸術の統合―」(聖心女子大丹沢学舎10月7−8日)初日対談「現代の戦争画」(池田龍雄×内海信彦)、二日目鼎談「くたばれ現代日本美術!」(池田龍雄×内海信彦×宮田徹也)に参加。
15 ○〈縄文と現代 ?二つの時代をつなぐ『かたち』と『こころ』〉(青森県立美術館10月7日− 12月10日)に旧作が展示される。
16 ○〈記憶を超えて − Artists born in the prewar years−池田龍雄、織田廣喜、鬼頭曄、池田庄介〉展(東京アートミュージアム2006年10月20日−2007年2月18日)に旧作が展示される。
17 ○〈コレクター砂盃富男(いさはいとみお)が見た20世紀美術「迷宮+美術館」〉(高崎市美術館+群馬県立近代美術館9月17日−10月22日・松涛美術館10月31−-12月10日)で旧作が展示される。
18 ○〈新収蔵作品展〉(岩手町立石神の丘美術館11月3日−12月3日)に旧作が展示される。
19 ◎宮田徹也講演「かたちの発生とその評価―美術史的見解から」(第1回横幹連合総合シンポジウム)においてコメント
20 ◎「とめろ!戦争への暴走 12・3怒りの大集会」(12・3集会実行委員会12月3日東京中央会館ホール)にて、『場の位相=戦場』を展示する。
21 ▲〈チャイルドライン宮城〉(仙台国際センター12月7−9日)に絵馬を出品する。
22 ◎〈画集刊行記念 池田龍雄展 場の位相 ワームホール・線〉(ギャラリーユマニテ東京12月7日−26日)
23 ◎〈画集刊行記念 池田龍雄展 場の位相 ワームホール・線〉オープニングイヴェント(7日)「小林嵯峨舞踏公演」
24 ○〈正札市展〉(ギャラリー川船12月18− 22日)に『作品』(1975年 ミクスドメディア 33.3×28センチ)、『作品』(1950年 コンテ 28.6×25.7センチ)、『作品』(1950年 コンテ 36.4×25.6センチ)が出品された。
25 ◎雑誌「点」20号(「点の会」発行)の表紙と挿絵、小説『「あなた」は「わたし」夢遊譚(その8)』を発表。

 このように新しい作品を生み出し、活動した場面が12箇所もある。この活動をA.戦争問題発言、B.作品分析という二つのセクションに分け、第1回目に発した検証点、
@「日本戦後前衛美術」の名称
A戦後前衛美術の日本的特徴
B西洋近代との関わり
Cなぜ海外へ赴いたか・なぜ国内に留まったか・国際的視点をどれだけ必要としてきたか
D団体展との関わり
をからめ、考察する。







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●戦争問題発言から
まずA.を検討しよう。池田龍雄が戦争反対、いわゆる「思想運動」を行っているのは5、10、13、14、20と、数は多い。
 しかしこのように自己の意見を明らかにしているのは昨日今日の話ではなく、その活動の当初から、しかも共産党等の団体に属することなく「個人」として戦争を憎み、同じような過ちを繰り返すことを警告し、いかなる権威からも開放された自由な「個」を求めていることに注目すべきであろう。
 だからDの問題とは関わりが生まれない。この内容を5から端的に追う。
このシンポジウムは13時から始まり17時に一時終了した。まず池田が「特攻」について説明。田中氏は自分が生きてきた道として学生時代や70年代安保への反応、その後新聞記者としてどのように活動したのか話した。
 次に東京国立近代美術館で行われていた〈藤田嗣治展〉の考察に移り、池田は藤田の絵が「あまり上手くない」という見解を示し、田中氏は朝日新聞に掲載した自己の藤田展記事の意図を説明した。内海氏が戦争画の話題だけではなく、題目の「現代日本美術の岐路」までテーマを拡大したほうがいいのではと提案し、会場に若い方が多いのをみて「転向」の説明をした。
 それを受けて池田は、戦争そのものについての自己体験を話した。田中氏は藤田の父、ピカソの『ゲルニカ』、ダリの『内乱』について補足し、さらに現代日本のサブカルチャーが主体の芸術と、工芸の再認識の問題について言及した。
 私は、田中氏にサブカルチャーを「美術」の文脈に入れる詳細を伺った。田中氏はクリストに会った体験を話した。クリストは「反芸術、非芸術などない、芸術は拡大するのだ」と田中氏に話したそうだ。田中氏は自己が発展史観にはまっていたことを、このクリストの発言で理解できたという。この後、場所を美学校から酒場に代えて23時まで続いた。
 政治に対する池田の発言は、どうしても誤解を生む場合が多い。それは池田自身の問題ではなく、発言を解釈する側に問題がある。
 これは@、Aと大きく関わっている。「前衛」という言葉は1950年代、共産主義と深く関わっていた。1980年代後半に共産主義が崩壊する以前の1970年代には既に、「アヴァンギャルド」という語彙が疎まれていた。
 このような状態を池田は既に自著『芸術アヴァンギャルドの背中』で示している。池田にとって自己の芸術は思想運動ではないのだから、共産主義に対する扱いと同列では困ることだろう。このような分類をする事自体も、戦後前衛美術の日本的特徴だといえる。
 池田がどのようなグループに属し、どんな様式の絵画を描いていたのかという問題を考察するとしても、いかに分類をせずに池田の主張を汲み取れるかが問題となる。
『池田龍雄画集』表紙

 2006年の『池田龍雄画集』の刊行は、重要である。これまでさまざまな美術館、画廊、印刷物で断片的にしか見ることができなかった池田の絵画とボックス写真を、カラーで約50枚、白黒で約300枚、まとめて見ることができる。
 それでも物足りなく感じるのは、池田が絵画のみならず立体やパフォーマンス等の活動を多く行っているからだろう。ここからB.の考察に移る。6を報告する。







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●『梵天の塔』のパフォーマンス
 横浜ZAIMは横浜トリエンナーレでの使用を経て、創造界隈の拠点として財団法人横浜市芸術文化振興財団が管理され、生まれ変わった。
『梵天の塔』のパフォーマンス風景(横浜ZAIMにて)  撮影:飯村昭彦

そのオープニング・フェスティバルにCHAOSMOS冨岡雅寛氏が参加、Chaosmos Magnetic Acoustics Machine−Twinを展示し、4日にはダンサー相良ゆみが、6日に池田が『梵天の塔』のパフォーマンスをコラボレーションした。
 Chaosmos Magnetic Acoustics Machine−Twinは共振振り子の原理で、二つの振り子が動くと下部に付けられた磁石によって下に備え付けられている鉄の玉が動き、さらに下に配置されているマイクがその微細な音を拾い上げ、スピーカーを通して会場に響き渡る。一度触れてから止まるまでおよそ14分であり、その間、池田は『梵天の塔』の輪を動かした。
(同上) 撮影:飯村昭彦

 始めはスピーカーからの音にかき消されていたが、振り子の動きが鈍くなる程、池田が輪によって発する「カツーン」という音が鋭く聞こえてくる。この時空間を麻痺させるパフォーマンスは、池田が立ち上がることで終わるのではない。黒子の池田はマスクをとり、時間と空間への自らの見解を述べる。それは4で語られた内容とも密接に関係し、池田が常に主張している事項である。
(同上) 撮影:飯村昭彦

 その後、観客も『梵天の塔』に触れて、池田と語り、ここの段階でパフォーマンスは終了することになる。つまり、『梵天の塔』とは芝居ではなくコミュニケーションなのだ。この点は、最後までこのパフォーマンスの写真を撮り続けた飯村昭彦に御指摘戴いた。Bとは全く関わりがないことが理解できるであろう。だからこそ、池田にとってCの問いもあまり意味を持たない。西洋との対比を必要としないのである。






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「動作」からの出発
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●「発展史観」などは存在しない
 次に、22を報告する。この展覧会で池田はキャンバスと木材を支持体としてアクリルで描いた新作を、ドローイングを含め約30点展示した。アクリル画のほとんどは至る所にドリルによって穴が空けてあり、裏側まで突き抜けている。
アクリルによる新作(ギャルリー東京ユマニテにて)

 池田は「立体的ではあるが、これらの作品は平面なのだが表面的ではない」と画廊で語っていた。穴を見せることが空間のよじれを示すのみならず、時間軸を変形させる点において『梵天の塔』と共通している。この池田の作品こそ、まさに「動作から出発」している。
このような池田の作品に対する態度は、実は池田が活動を始めた頃から一貫している。
〈画集刊行記念 池田龍雄展 場の位相 ワームホール・線〉オープニングイヴェント(7日)「小林嵯峨舞踏公演」風景(ギャラリーユマニテ東京にて)

 1948年頃、土方巽との出会いとは別口で、既に大野一雄の師匠である江口隆哉をデッサンしている事実が、端的にそれを表しているだろう。このように池田を慕う舞踏家は、数多く存在する。そのうちの一人、小林嵯峨が個展の初日に舞った。この時は舞踏系と美術系の多くの著名人も集まっていた。
 小林は暗黒舞踏の系譜と言われているが、今回の公演は白い着物をまとい、清潔感が満ち溢れていた。摺り足で進み、寝転び、足を上げ、立ち上がる。その繊細な動きは作品と絵画作品と絡むことはなかったが、内面的なつながりが強く感じられた。池田が創り上げた空間で、小林嵯峨は池田が持つ上品さを体で表したのだった。
(同上)

 そして年明けに私は千葉市美術館の〈サトウ画廊1955−1981〜若く、熱い日々〜〉展を見に行った。池田の作品は『化物の系譜 仲間』(1955年 鉛筆、水彩、紙29.4×38センチ)、『化物の系譜 舞台』(1956年 インク、水彩、紙 37.9×29.4センチ)、『化物の系譜 ヒロイン』(1956年 コンテ、インク、水彩、紙 37.5×29.3センチ)、グロッタ展案内状画稿(1957年 インク、紙 14.2×10センチ)、グロッタ展案内状画稿(1957年 インク、紙 9.4×8.3センチ)が出品されていた。
 ここにある「仲間」には、穴が多く描かれているではないか。池田の作品に「発展史観」などは存在しないのだ。






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「動作」からの出発
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宮田徹也


●人間は先ず踊っていたのではないだろうか
 池田は数多くの戦後美術に対する発言、他の作家に対する批評も行っているのであるが、2006年度の発言が少なかったために取り上げなかった。
池田といえば1996年、峯村敏明氏が〈1953年ライトアップ〉展を企画した際に、その歴史観の捻じ曲げに対して声を大にして議論していた。この点についても、深い考察が必要だろう。作家が他者に、黙って作品だけ見ていればいい、と偉ぶる時代ではない。この総体的な池田論は、多くの頁を必要とする。
池田の場合を追うと、敗戦後の焼け野原がまるで人類の原初の状態に近いのではないかと想像する。人類初の絵画とは石窟にあるとされている。
しかし絵と言う形で残されている以前に、人間は先ず踊っていたのではないだろうか。この発想はまるでレヴィ=ストロースのような構造主義的側面を引きずってしまうのだが、ここから少しでも新しい見地が生まれれば作品をより深く理解する手立てになろう。「動作からの出発」の由縁はここにある。
すると次回では、突如踊り始めたとされる桜井孝身とゼロ次元の現在の姿を追う必要が出てくるであろう。彼らは動作から出発したのか、それとも絵画から出発したのか、現在でもその動作は続いているのか、それとも別の形に収まっているのだろうか。この点を検証する。


■ 宮 田 徹 也 (みやた てつや
 1970年、横浜生まれ。1992年、高校中退。2002年、横浜国立大学大学院修士課程修了。修士論文を「百済観音考」と題し〈日本美術史〉形成の過程を追い、この論考を2004年、明治美術学会で発表。
 また、「イマージュオペラ」「畳半畳」から身体に興味を抱き、ダンス・舞踏・パフォーマンスに対する論考を「ダンスワーク」56(2005年)、57(2006年)号に発表。
 現在は、〈日本戦後美術〉と〈舞踏〉に焦点を絞り、敗戦後の日本における芸術の動向を追う。最近は雑誌「トーキングヘッズ叢書」でダンスの記事を連載し、『池田龍雄画集』では「参考文献表」を担当。

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