宮田徹也氏による新連載 
   

 宮田徹也(日本近代美術思想史研究)


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戦後の日本の急激な発展の影響は、もちろん美術にも及んだ。
堰をきったように流入する欧米の最新の情報に反応しながら、自分たちの周りの社会状況の目まぐるしい変化にも対応する中で、生まれてきた表現と作品。
それらの多くは“前衛”として一括され、多くの論評が同時代的にされてきた。
しかし時代の流れの中で、現在では既に“過去”として扱われてしまうことも多い。
この連載では、独自に日本戦後美術を研究している宮田徹也氏が、毎回一つの展覧会をとりあげ“現在の表現”として述べていく。
第1回 (2006年)11月20日





連載記事
「動作」からの出発
―日本戦後美術再考とその今日の作品―
宮田徹也



●0 日本戦後前衛美術の近年の研究動向

 
現在の美術の状況を目の当たりにしても、依然、西洋の印象派展、日展、「日本画」展が大きな集客力を持つことに変化はない。
 「日本戦後前衛美術」を研究する場所は現在の大学機関には存在せず、研究として認められていないから発表する雑誌もない。全国に整備された国公立美術館において、学芸員が膨大な資料をまとめている段階に過ぎない。いわば「日本戦後前衛美術」は、現在ではマニアックな世界でしかない。
 しかし同時に、「日本戦後前衛美術」が取り上げられる場面は、珍しくない。特に大阪の国立国際美術館では〈もの派―再考〉(10月25日〜12月18日)展でシンポジウム〈野生の近代 再考―戦後日本美術史〉が三日間(11月3〜5日)にわたり開催され、建畠哲を含めた総勢20人のパネリストが参加した。
 このシンポジウムの趣旨が、『記録集』(国立国際美術館/2006年3月)の「はじめに」に記されている。

 「日本の近代はたしかにさまざまな確執に満ちた時代でしたが、それは未熟な近代でもなければ歪んだ近代でもなく、むしろ近代そのものが巨大な分裂の時代であったことの典型的な現れであるというべきでしょう。戦後の前衛美術の日本的な特殊性もまた近代の埒外にあるのではなく、本来的には(西洋から見た)周縁部に激発したモダニズムの運動として捉えることが可能なはずです。今回のタイトルにあえて「野生の近代」という一見、矛盾をはらんだ言葉を付した理由もそこにあるのです。」

 ここから戦後前衛美術の日本的特徴とは、西洋的近代に含まれるという趣旨が読み取れる。そして、このような主張自体が西洋の研究に由来されて、未だ発展史観として捉えられている点を指摘することができる。











連載記事
「動作」からの出発
―日本戦後美術再考とその今日の作品―
宮田徹也


















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「動作」からの出発
―日本戦後美術再考とその今日の作品―
宮田徹也




















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「動作」からの出発
―日本戦後美術再考とその今日の作品―
宮田徹也































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「動作」からの出発
―日本戦後美術再考とその今日の作品―
宮田徹也



























連載記事
「動作」からの出発
―日本戦後美術再考とその今日の作品―
宮田徹也




●1-1西洋近代の包含


 
「日本前衛戦後美術」が西洋近代に含まれるという主張は、その黎明期から主に批評家の言説によってなされていた。1952年、今泉篤男はヨーロッパの研修から帰国後、「美術批評」8月号に「近代絵画の批評」を執筆する。ここで今泉は、フランスのサロン・ド・メで見た日本の作品の水準の低さに驚き、作家と批評家に反省と勉強を求めた。
この時点で「日本前衛戦後美術」が、西洋の現代美術と肩を並べる存在であるという自負が見え隠れする。
 この流れを断ち切り、新しい評論を生み出そうとしたのが針生一郎、中原祐介、東野芳明、瀬木慎一らであったが、彼らもまた、西洋の現代美術の紹介に関しても尽力を費やした。
 ここには焼け野原の戦後に新たなものを打ち立てるためには、西洋の最新の情報が不可欠であるという思想と、皇国史観の墜落により西洋と対等に付き合える自由さと、戦前から日本は西洋以上の美術概念を誇るという三つの発想が混在している。


●1-2 発展史観と〈カテゴライズ〉

〈野生の近代〉においては、「〈人間と物質〉展」「具体」「もの派」「大阪万博」「地方の前衛運動」というトピックが選択されていた。ポンピドゥー美術館の〈前衛芸術の日本展〉(1986年12月〜1987年3月)における展示では、「具体」「ネオダダ」「もの派」であった。この美術史観は、その後〈戦後日本の前衛美術〉(横浜美術館1994年2月5日〜3月30日。その後、1995年にニューヨークのグッケンハイム美術館ソーホー館、サンフランシスコ近代美術館を巡回)に引き継がれる。
 この展覧会では、ハプニングなどをヴィデオ映像で上映し当時の熱気を示した。これは1999年、東京都現代美術館で開催された〈アクション:行為がアートになるとき〉(2月11日〜4月11日)にそのまま流用され、2004年〈痕跡〉展に連結される。
 このように各作家をカテゴライズする手法は、ポンピドゥーから始まったと言えるだろう。日本では1973年に彦坂尚嘉が初めて本格的に取り上げた「具体」は(「閉じられた円環の彼方は」『美術手帖』5月号)は、その後も評価を与えられず、研究も進んでいないにも関わらず、ポンピドゥーでは取り上げられた。「ネオダダ」もメンバーのアメリカでの活躍を差し引きすると、なんら評価される意義が見つからない。この点においては既に白川昌生が「具体・ネオ・ダダ・そしてアメリカ」(『POSI』第6号1996年)指摘している。「もの派」以降の作家、例えば川島清のほうがずっと精度の高い仕事をしている。


●1-3 「戦後前衛美術」の定義

〈野生の近代〉における「戦後前衛美術」という言葉の定義が、いつどのように為されたのかがはっきりしていない。「日本」を網野善彦のように定義せよというわけではないのだが、「戦後」と言っているのは日本だけで、中東戦争(1948〜1973年)、朝鮮戦争(1950〜1953年)、ベトナム戦争(1960〜1975年)を例に挙げるどころか、1945年以降世界中の至る所で紛争が起こり、朝鮮戦争においては朝鮮特需を、イラク戦争においては自衛隊を派遣した事実等、日本も戦争に加担している状況を考慮に入れれば、決して日本のみが「終戦」したのではないといえよう。
 また、「前衛」という定義にも問題が起こる。「前衛」とは日本では政治的意義で使用している場合と政治的イデオロギーとは距離を置く革新的な芸術運動という二つの側面を持つ言語だった。
 大阪万博博覧会は日本戦後美術史上において、重要な位置を占めた。この博覧会直前にデビューしたいわゆる「もの派」の作家達には、この固有名詞が付けられることはなかった。1980年代に入ると最先端の美術を担う者は「アーティスト」、その作家が作り上げる作品は「アート」と呼ばれるようになった。
 現在では「前衛」は形骸化し、当時の他国の最先端の美術に触発され、独自の追求をして「いた」、つまり過去のアーティストに向けられた、既成団体の対となる概念、仮称でしかない様相を呈している。
 しかしヨーロッパの「前衛」をいち早く受け入れたのは、少なくともアカデミックの世界では戦前の第一回一九三〇年協会独(1931年)であり、二科の九室(1933年頃)にもその兆候は表れていた。
 「日本戦後前衛美術」の時代に活躍した個人に眼を向ければ、岡本太郎の影響力を九室会に求めることも可能であるが、地方の作家達にとっても自由美術家協会、独立美術協会はアンデパンダン展が形成される以前の1950年代に至っては発表の場としても重要な位置を占めていた。このような動向を針生一郎はつぶさに観察し展評を発表し続けたが、この行動の重要性を再検討されるまでに今は至っていない。


●1-4 「戦後前衛美術」研究史

そもそも「日本戦後前衛美術」の検証は、今から見るとその当時と思われる1960年代初期から行われていた。針生一郎は既に1959年1月の段階で「戦後美術の一帰結」(『芸術新潮』)を発表し、「戦後美術盛衰史」を1963年1月から連載を始めている(12月まで『美術手帖』)。
 この内容は発展史観ではなく「カテゴライズ」でもない、グループと個人の羅列と当時の状況を絡めたものである。この後『美術手帖』などの雑誌で幾度となく「日本戦後前衛美術」は再考される。その割には「通史」が書かれることはほとんどない。
千葉成夫『現代美術逸脱史』(1986年晶文社)、椹木野衣『日本・現代・美術』(1998年新潮社)でも完璧ではない。
 戦後美術の通史を描けないのは建畠哲によると「戦争画をブランクにしてしまっているせい」だと言う(「アーティストたちの戦後」『美術手帖』1995年4月号)。建畠は〈野生の近代〉展『記録集』においても、千葉の『逸脱史』は「日本的なアイデンティティの本質を西洋モダニズム美術の受容としての正史を退けたところに成立するもの」、椹木の『日本・現代・美術』は「正史そのものの成立の可能性への懐疑をめぐる論考」「ディスクールの成立、戦後美術史に対する全体を把握するような言説自体の可能性を疑う立場」と読み解いている。この発言の根底には、宮川淳の「ディスクールとしての美術史」が横たわっている。


●1-5 「戦後前衛美術」評論史の転機

  宮川淳は「阿部良雄との往復書簡」(『美術史とその言説』1978年中央公論社)において、「近代絵画史の予定調和論的進化論ないしテレオロジーを問い直すことは、近代絵画史をいかに書き直すかという方法論的な問題に導くべきものであって、…ひとつの林檎を描くことでそれ自体が絵として成立すること、いいかえれば、それが美術であることを合図するfaire signe。それはひとつのディスクールであるだろう。美術史とはそのようなディスクールの分析となる」と述べている。これに対して建畠は〈野生の近代〉『記録集』の中で、「現場の批評的イデオロギーはどうあるべきか、ということになり、状況に参加するか高みの見物をするか二者択一を迫られてしまう。…歴史的なコンテクストというものをもう一度検証する意外にないだろう。そのことによって理性を取り戻すしかないだろう、というのが僕自身の考え」であり、これが〈野生の近代〉であるという。ここには、「ディスクール」や「歴史的なコンテクスト」が、発展史観を超克為しえるのかという問いが抜けている。
 同書で建畠が「僕は宮川淳によって圧倒的に影響を受けた世代」と告白するとすれば、千葉も『盛衰史』において「宮川がスターだった」ことを述べている。椹木野衣は「惑星的」(『池田龍雄画集』沖積社2006年)で「「実験工房〜具体〜アンフォルメル」という動きと「青美連〜ニッポン展〜制作者懇談会」という動きが同じ時代に同時並行的に起こっていた」ことを強調するが、これでは発展史観を問題としない点で単なるコインの裏表的な発想に過ぎない。この犀利な三者が陥っている近代主義から、少しでも抜け出さなくてはならないだろう。この近代主義とは「個人」「グループ」「カテゴライズ」「発展史観」である。
 これは展示においても言えることだ。「個人」を強調することによって、近代的個人に還元されてしまうことを恐れてしまうと単なる「郷土作家」になってしまう。かといって「グループ」に依存すると例えば「ネオダダ」のように国際性が強調されてしまい、吉野辰海のような微細な活動が影に隠れてしまう。そして「カテゴライズ」すると発展史観に絡めとられてしまう難しさがあり、安易にこの近代主義を否定することはできないのだ。
 また、「日本戦後前衛美術」研究の難しさは、作家自身もしくは遺族が存命のため、例えその作家の言葉が間違っていたとしても容易なことを公に表せない点がある。それは作家のみならず、画廊にも及ぶ可能性を否定できない。このような難点を超克することに立ち向かわないことも、「ディスクールとしての美術史」に移行する理由に挙げられるであろう。


●1-6 「戦後前衛美術」発展史観

宮川が後世に徹底的な影響力を与えたのは、この歴史観と「芸術が存在することの不可能性」というポエム、そして「アンフォルメル以後」(『美術手帖』1963年5月号)における1960年までの美術の動向を総括した言葉、「ジェストとマチエールのディアレクティク」であろう。
 宮川はここにおいても「近代芸術のコンテクストの中で語り続けることができるかどうか」と前提とし、1940年代後半からのフォルムからマチエールへの価値転換を指摘し、このマチエール意識と相関的なものしてジェスト(仏・geste)=アクション(英・action)を把握しなければならないという。「物質の抵抗が「その外的なフォルム、不可侵のフォルム」において捉えられるかぎり、それは「排除のモチーフ」に過ぎず、そこには一回かぎりのリアクションしか起こりえないとき、ここでは、そのような「最初のノン」をこえて、つねにジェストがマチエールの潜在的可能性を明証化し、一方、マチエールがジェストを現実化する、という主体と客体とのたえざるディアレクティク、おそらくはジャクスン・ポロックのいう、あの《ギヴ・アンド・テーク》がある」。つまり、マチエール自体の表現の可能性とは人間の行為と同じものであり、それは常に弁証法的に対話しているということになる。
 これをすぐさま、その後の批評家が引用し、1950年代の絵画の時代から、1960年代は「マチエール」と「アクション」の時代になってしまった。ここに、至極単純な発展史観を読み取ることが可能である。







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宮田徹也

















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●2 「動作」からの出発


 
このような「日本戦後前衛美術」を今後、どのように考察していけばいいのか。先ず考えなければいけない点は、やはり個人として認識することであろう。作家達が活動した時代は、作家達にとって青年期の時代でもあった。つまりその活動が時代遅れの過去のものとなり、全く注目されないようになっても作家達は制作を続け、その円熟期は21世紀の現代であるということができよう。この円熟期を迎えた作家達の現在の作品を取り上げることに努めたい。
 次に1950年代当時からの流れを冷静に考察すると、作家が作品を作り、それを評論家が考察することが道理であるにも関わらず、次第に評論が先行し、作家がそれに合わせて作品を制作するという、逆行が起こっていると読み解くことが出来る。
 更に山口勝弘や池田龍雄のように、作家でありながらも評論を多く書く場合もある。評論文を一つの「作品」と解釈することも出来る。針生一郎が山下菊二の〈あけぼの村物語〉を当初は「安易な手法の上にモティーフの整理が足りなくてメロドラマになっている」(「新しいリアリズムのために」『美術批評』1953年7月号)と述べたのに、後世になって「私が始めて認めた」といっている言葉に矛盾があると、よく指摘されることだが、この当初の言葉を山下へのエール、若しくは「見て雑誌に書く」事に意義があるとすれば、字面を追うだけで針生の意図にたどり着くことはない。これは針生のいう「物質と人間」にある「物質」と、先の宮川のいう「ジェストとマチエールのディアレクティク」の「マチエール」は、そして中原祐介の「物質」が容易に結びつかないことも意味する。
 このように発想していくと、評論そのものと評論が生み出す権威、評論家自身と評論家という地位が持つ権威、作家、作品は、常に同じ関係を保っていないことになる。この点に注意を払って考察していかなければならない。
 そして最も重要な点は、発展史観にたいする考察である。「戦後」焼け野原で絵を描いていた者達が次第に「ハプニング」を始めたのではなく、この時期の作家達は、西洋の美術史の流れとは全く別の位置にいて、「動作」から制作を始めたのではないかといった仮説である。
 池田龍雄、桜井孝身から「既にデュシャンを知っていたから、絵画を描くことに意味を見出せなかったのだが、絵を描いた」という話を聞いた。中村宏がその制作当初から、映画の手法を絵画に入れようとしていた話は今泉省彦氏の文献を引用するまでもない。加藤好弘が版画から出発し、ゼロ次元で「儀式」を行いながらも「ドローイングする」という発言が多く発せられる点に注意したい。
 だからここでいう「動作」とは、「アクション」とも「ハプニング」とも「パフォーマンス」とも区別したい。これらは共に西洋概念から発し、手垢にまみれてしまっている。この考察は何故「動作」が簡単に受け入れられ、広まっていったのかを知る機運にもなるだろう。
 このような視点から〈桜井孝身+中村順子二人展〉(2006年9月12日〜18日福岡市美術館)、眩暈の装置―松本俊夫をめぐるインターメディアの鉱脈(2006年9月16日〜11月26日川崎市市民ミュージアム)、〈飯田善國展〉(2006年9月30日〜11月26日町田市立国際版画美術館)、〈ゼロ次元〉(2006年11月18〜19日アウトラウンジ)、〈池田龍雄展〉(ギャルリーユマニテ東京)+池田龍雄画集書評+昨年のトークショー(ギャラリー58)総括、〈中村宏展〉(2007年1月20日〜4月1日東京都現代美術館)という展覧会(予定)を考察し、さらに
@「日本戦後前衛美術」の名称
A戦後前衛美術の日本的特徴
B西洋近代との関わり
Cなぜ海外へ赴いたか、なぜ国内に留まったか、国際的視点をどれだけ必要としてきたか、
D団体展との関わり
等に焦点を絞り、「日本戦後前衛美術」の原像に迫りたい。


■ 宮 田 徹 也 (みやた てつや
1970年、横浜生まれ。1992年、高校中退。2002年、横浜国立大学大学院修士課程修了。修士論文を「百済観音考」と題し〈日本美術史〉形成の過程を追い、この論考を2004年、明治美術学会で発表。
また、「イマージュオペラ」「畳半畳」から身体に興味を抱き、ダンス・舞踏・パフォーマンスに対する論考を「ダンスワーク」56(2005年)、57(2006年)号に発表。
現在は、〈日本戦後美術〉と〈舞踏〉に焦点を絞り、敗戦後の日本における芸術の動向を追う。最近は雑誌「トーキングヘッズ叢書」でダンスの記事を連載し、『池田龍雄画集』では「参考文献表」を担当。

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