藤田一人氏による連載第二弾!

 


美術ジャーナリスト:藤田一人Kazuhito Fujita

第2回  9月16日
第3回 11月26日
第4回 12月14日
第5回2005年  2月22日
第6回  5月11日
第7回  5月25日
番外編(横浜美術館) 2005年8月31日

 日本各地の公立美術館を筆頭に、財政難のもとにさまざまな締め付けがはじまっている。まるで美術館建設ラッシュの反動のように。
 すでに文化行政も批判や見直しなどしにくい“聖域”ではなくなったのだ。

 このような状況下で見えてくる日本の文化行政を、美術館の問題を通して探る連載。筆者には、前回「国立新美術館とは何か」を執筆した藤田一人氏。

 締め付けられる文化を単に被害者としてとらえず、様々な視点から財政難という問題の背後に隠れた本当の問題を明らかにしたい。(編集部)



                         2003年度 第一回連載「国立新美術館とは何か?」はこちら
第1回 8月17日












美術館の“大義”
―財政難だけではない問題
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト








●展望なき日本のひ弱さ


  未来への展望を持ち得ない者は、ひ弱だ。
 “展望”のなき者は、目の前に立ちはだかる問題に、自信をもって毅然と対峙し、それを乗り越えていくことが出来ない。展望が開けない限り、いや、開こうとしない限り、“いま”という現状を打破できず、ただ、現状を守ることに窮窮としなければならない。そうすると、何か問題が生じるたびにその問題の本質に向き合うことなく、その場凌ぎの、小手先の処置に終始し、衰退の一途を辿るということになる他ない。
 そして、今日の日本と日本人には、何より、未来への展望が欠如しているように思えてならない。
 現在、私達が直面している様々な問題に、行政はもとより、私達日本の社会は、どれほど真正面から、問題の本質に迫り、未来の展望に向けて、現状の乗り越えを模索しているといえるだろうか。いや、それよりも、例え近年の状況は決してよくはない。将来、益々の状況の悪化も予想できる。しかし、今はまだ耐えられないことはない。確かに以前よりは苦しくて、不安だが、それでも、また多少は豊かだ。色々不都合はあっても、経済的には豊かな方だ。とにかく、この豊かさだけは、何とかして守りたい。そのためには、現状を打破して、少しでも何かを変えなければならないのは分かっているのだが、一体どうしていいのか分からない。
 何故なら、結局のところ、色々問題は山積してはいても、最大限の現状維持を本音として願っているからだ。
 なら、徹底して現実を受け入れて、衰退の中に何かを見出してもいいものなのだが、そこまで腹をくくることは出来ない。
 つまりは、現状を受け入れることも出来ず、かといって、それを乗り越える未来への展望を見出し、それに賭けることも出来ない。何とか、その場を凌いで、状況が好転するのを待つのみなのだ。
 そうして、不安と不満を抱えながら、外部から強烈な構想が突きつけられると、それが例え自分の意に沿わないものであっても、グイグイと押し込まれ、それを押し返すことが出来ず、渋々受け入れざるを得なくなる。自身に展望がないから、展望を持つ他から、それを突きつけられると、それに対抗するものがない。だから、強い展望と意志もつ者に引きずられざるを得ない。そうでないと、危機の波に飲み込まれることを覚悟しなければならんからだ。その場凌ぎの対処の姿勢は、そういう状況で決定的となる。
 近年、日本各地で言われている、財政難下の美術館問題というのも、そういった展望なき、小手先的対処の典型の一つだ。









美術館の“大義”
―財政難だけではない問題
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト



●美術館は“聖域”ではない


 2001年の国立博物館・美術館の独立行政法人化に始まり、私立美術館の相次ぐ閉館、公立美術館の人事、リストラ、そして、ついに公立美術館の民間委託、閉館へと。日本の美術館状況は、確かに厳しさを増すばかりだ。
 当然、美術館といえども、“聖域”ではない。国家はもとより、各地方自治体の財政難の下、行政のリストラの中で、美術館をはじめとする社会教育施設にも、予算の削減はもとより、民間委託、閉館と言うことも、やむを得ないのかもしれない。
 今言われている、昨今の美術館の危機的状況は、財政難という経済問題が最大の原因なのは間違いない。が、昨今幾多の美術館が抱えている問題を顧みると、結局のところ、単なる“お金”の問題ではないという気がしてきた。突き詰めると、美術館というものが持つべき大義というものが確立されず、非常に曖昧な存在理由にあるのだろう。
 そんななかで、美術館の外側の世界から様々に突きつけられる問題に対して、根本的な問題を捉えようとはしてこなかった。
 で、その場しのぎの対処を続けてきた付けが廻ってきて、ついににっちもさっちも行かなくなったという状況に思えて仕方がない。
 となると、美術関係者や美術館員達の意見はとにかく、“美術館”を巡ってもっともっとあらゆる方向性からの“美術館とは何か?”という問題点を浮き上がらせることが何より重要なことだろう。
 そもそも、特に国公立の問題は、“美術”“芸術”なるものを超えて、“公共施設”“公共機関”としての自覚の欠如に他ならない。
 その行政側から言えば、しっかりとした行政的見地のにたった“美術館の大義”といえるものを提示出来ないまま、現場の既成事実の積み重ねを目指してきたという事実も見逃せない。
 そうして、根本的な問題に取り組むことなく、ドタバタとその場しのぎの対応のみに時間を費やしてきた。
 そんななかで、浮かび上がってきたのが、全国各地の美術館問題。単なる“美術”という狭い世界の問題としてではなく、“日本の文化政策”“文化行政”の問題として、その存在意義の根本を考えてみようということで、今回から、昨今、様々な問題を抱える日本の美術館問題を追いかけることにする。








美術館の“大義”
―財政難だけではない問題
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト





●芦屋から浮かび上がった問題点

 日本の公立美術館の存立の危機が言われる昨今。兵庫県芦屋市の芦屋市立美術博物館の問題が、昨年(2003年)の後半に発覚し、以後、日本全国の美術、美術館関係者に衝撃を与えた。
 その発端となったのは、芦屋市が発表した「行政改革実施計画」だった。
 同計画は、1995年の阪神大震災以降の復興費が大きくのしかかり、財政状況が悪化の一途を辿り、四年後の2006年には、市の財政が破綻し、財政再建団体への転落への危機が浮上してきた。そのために、今後、約260億円の財政削減を目標に、68項目からなる財政改革案として市民と市議会に提示したのだ。
 そのなかの一つに、赤字の続く文化施設、文化事業の見直し案だ。
 そのために、2006年までに、同文化振興財団の管理する事業、施設の民間委託と、もし、委託先が見つからない場合は、施設の休館、閉館も検討されるというものだった。そのなかに、芦屋市立美術博物館も含まれていたというわけだ。
 芦屋市では、平成18年度(2006年度)までに美術博物館の民間の委託先を探し、もし委託先が見つからない場合は、休館またはコレクションを売却し閉館も、やむなしとした。
 それに対して、当然のこどく美術館内部は勿論、全国の美術館関係者や美術関係者、さらには、海外からも反対の声が巻き起こった。さらに、地元の住民からも、民間委託先が見つからない場合は閉館という方針には、反対や疑問の声が上がり、有志による「美術博物館を守る会」や「美術博物館を考えるワーキンググループ」などが立ち上がり、存続の爲の署名運動や、美術博物館問題を検証して、新たに現実的な存続方法を模索するシンポジウムなどが展開された。
 そんななかで、同市の市議会議員のなかにも賛同者を得て、議会内でも再検討の請願が全会一致で採択されるなど、美術館存続への道が開かれて、とりあえず、小康状態を保っているというのが現状だ。
 さて、そんな昨年末から今年初めにかけて展開された、芦屋市立美術博物館の問題を巡って交わされた、数々の発言や議論からは、良くも悪くも、今日の日本の公立美術館の現状とそれを取り巻く価値観や評価の多様さが、否が応でも浮かび上がってくる。それは、まさに、一体美術館は“何のために”そして“誰のために”あるのか。これまで、本当の意味で、真剣に問われないできた根本的な問題が、宙ぶらりのまま置き忘れられてきたことに気づかざるを得ない。
 そこで、本連載では、日本の文化的公共施設としての“美術館”のあり方をとおして、これまで、日本の美術館が果たすべき役割を問い直してみたい。



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