藤田一人氏による連載第二弾!
  芦屋市立美術博物館 W

美術ジャーナリスト:藤田一人Kazuhito Fujita

第1回 8月16日
第2回 9月16日
第3回 11月26日
第5回2005年  2月22日
第6回  5月11日
第7回  5月25日
番外編(横浜美術館) 2005年8月31日
                         2003年度・第一回連載「国立新美術館とは何か?」はこちら
第4回 12月14日












美術館の“大義”
芦屋市立美術博物館 U
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト






















美術館の“大義”
芦屋市立美術博物館 U
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト


















美術館の“大義”
芦屋市立美術博物館 U
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト




●美術館に関する住民集会で


 芦屋市立美術博物館の存続を求める支援活動は、芦屋市内と周辺の兵庫県に関西一円でも展開された。まず、芦屋市在住の西本佳子さんを代表として「芦屋市立美術博物館を守る会」が結成された。同会は、街頭を中心に美術博物館の存続を求める署名活動を展開。集まった署名総数は、開始から1ヵ月余で約15,000名分。その内、市内在住者分、約1割強。芦屋市民よりも周囲の関心の方が高いということも言えるのだが、人口8万人という芦屋の規模から考えると致し方ないということか。同会は、その署名に陳情書を添えて、2003年12月に、市議会議長に提出。美術博物館問題を議会で議論することを求めた。

 この他、美術博物館と連携して様々な活動を展開しているNPO法人「おもしろプランニング」や芦屋市在住の映画監督・大森一樹さんが代表を務める「芦屋の文化を育む会」が、同時期に議会に請願。さらに、2004年に入ってからも、美術評論家連盟が芦屋市長、市議会議長そして美術博物館館長に対し、声明書を出して、公立美術館としての責任全うを訴えた。

 そんななかで、単に、公立美術館の施設と機能を存続するだけではなく、むしろ、この機会に、美術館という公共施設の維持、運営に関して、住民が積極的に参加し、支えていくことで、新たな公立美術館像を模索しようという動きが、芽生え始めたことは、不幸中の幸いと言っていいかもしれない。その一つが、先に挙げた、大森一樹さんが代表を務める「芦屋の文化を育む会」が2004年2月からスタートさせた「芦屋市立美術博物館を考えるワーキンググループ」。その活動は、芦屋市立美術博物館の現状をより多くの関係者が参加する話し合いの場で検証し、さらに民間委託も視野に入れた、多角的な存続の方法を考えようというもの。そして、そういう多様な市民の意見をもとに、市議会や行政側に、より柔軟な議論と対応を求めようと言うのだ。

 同ワーキンググループの話し合い集会は、2月13日、3月22日、4月26日の3回開催され、関係者に専門家それに一般参加者も含めた発言の記録に目を通すと、良くも悪くも、今日の日本の美術館とそれを取り巻く現状が浮かび上がってくる。勿論、同ワーキンググループは、美術館を如何に守るかがテーマだけに、美術館活動に理解を示し、その必要性を説く意見が多いことは言うまでもない。特に、美術・美術館関係者以外の一般住民にとっては、美術館が如何なる価値観のもとに何をやってきたのか、また、何をやるべきなのか、という問題よりも、美術館というものが、如何に住民をはじめ多くの人々に開かれて、地域に密着した存在になるかということが重要であるという意見が根強い。“住民に開かれた”“地域に根差した”という言葉は、昨今、美術館以外にも様々なところで聞かれるのだが、一体、今求められる“開かれた”“地域に根差した”美術館とは如何なるものなのか。そのアウトラインを、同ワーキンググループ集会の発言から垣間見ることが出来る。

まずは、第1回集会の同代表・大森一樹さんは、こう発言する。

「……この館(芦屋市立美術博物館)は1億5千万の予算に対して5パーセントの800万円しか儲かっていないのですが、これで美術館の価値が決まるのか。世界的にみても、20〜30パーセントの収益があれば優良美術館だといわれています。5パーセントは低いですが、これは100パーセントと比較すべき数字ではなく、20〜30パーセントと比べれば、まだ余地があるのではないでしょうか。
残りの70〜80パーセントは、美術館がもたらす地域経済の活性化や、市のイメージアップなど『経済と文化の二元論』では語れない部分です。文化がむしろ経済をひっぱる時代になってきていて、よく『お金に換算できない価値』といいますが、現実には換算しうるのです。

 そもそも人口8万人の芦屋市で、美術館に足を運ぶ人口は、世界的な統計では35パーセント=2万8千人です。常設展の入場料の300円をかけても1億5千万には到底及びません。つまり、どうすれば美術館を黒字にできるか、といくら議論しても仕方ないし、黒字になれば美術館は存在を許される、という問題でもない。黒字でなくても、美術館には存在の意味があるのです。

さらに、市民だけでこの美術館をいっぱいにするのはほとんど不可能に近い。市外から動員に期待すべきだし、それが経済活性やPRにもつながるのです。ここはよく地の利が悪いといわれますが、駅から遠いからこそ途中のお店や景色が目に入るわけで、考えようではこの距離がプラスになりうるのです。

 使いようでは、この館は財政がひっ迫している芦屋市の救世主にもなりうるのではないでしょうか。そう考えると、入場者数と売上げだけを理由に閉館してしまうのは非常にもったいないと思うのです」
また、パネリストとして招かれた武庫川女子大学・生活環境学部の角野幸博教授の発言。

 「ひと言でいうと、ミュージアムは街の必需品だと私は思います。その街を紹介し、あるいは住民が自分たちの街を考える場としての施設が、どんな小さな街にも、不可欠だし、決して贅沢品ではありません。阪神間の特性なのですが、一市一館というより、多くの小さなミュージアムが点在し、ネットワーク化されることで、この地域固有のイメージを育ててきました。そういう意味では、ここは芦屋市だけではなく、阪神間の美術館でもあるのです。

 ある場所に美術館があることで、その界隈の環境はどんな影響を受けるのでしょう。少なくとも、この近隣の地域イメージは決して悪くはなっていないはずです。そういう意味では、近隣の方々もちゃんと利益を受けているのです。

 この館を残していくためには、博物館法で定義された機能(展示、収蔵、研究、教育)以外にも、プラスアルファを考えねばならない。民営化とはそういうことです。例えば、結婚式をしたり、ある企業のCMロケ地にこの場所が登場したり、役所の定義では美術館は社会教育施設ですが、これを高齢者のための福祉施設と読み替えることはできないか、など。ありとあらゆることを考えなければなりません」

 この二人の発言は、昨今盛んに論じられている“開かれた”“地域に密着した”美術館、というよりも、公共施設、公共財産論の典型と言っていい。そこでは、美術館も住民のための公共施設として幅広く受け入れられ、より有意義に活用されることが最も重要だというわけだ。ただ、そのために、その存立と活動の基本となるべき文化観や歴史観のあり方やその是非は、とりあえず脇において、より実利的な可能性を追求しようという傾向がある。例えば、美術館というものが、現金収入としての経済的自立が出来ない部署であるなら、広告宣伝や福利厚生と考えて対処すれば、理解を得られるというわけだ。まさに、昨今の民活発想と変わりない。それはある意味、分かりやすい議論ではあるが、本質論を先送りにして、目先の対処、方法論ばかりが論じられていると言えなくはない。それは、全国の地方自治体がこぞって美術館建設を推進した時と同様に、“誰のために”“何故”“どんな”美術館が必要かという議論なしに、美術館建設が進められたこと、そうは変わりないように思えるのだが。










美術館の“大義”
芦屋市立美術博物館 U
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト
































美術館の“大義”
芦屋市立美術博物館 U
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
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美術館の“大義”
芦屋市立美術博物館 U
文●藤田一人
Kazuhito Fujita
美術ジャーナリスト



●住民が考える美術館のあり方


 そんななかで、一般の参加者の意見はどうなのか。いくつかの発言を挙げてみる。

 「……芦屋市展の歴史もあり、芦屋=抽象というイメージが定着しています。それこそが、この美術館で催しをしたときにお客さんが来ることの、歴史的背景なんです。私は抽象がきらいだとか、写実以外認めないとか、そういう次元の話ではなくて、発表の場所を残すためにはどうしたらよいのか、もっと真剣に議論していただきたい。過去の歴史をみれば明らかですが、ローマでも中国でも、美術館や図書館がつぶされると、必ずその国が滅んでいる。それくらい大事な話をしているのですから」

 また、こんな意見も。

 「事業費は赤字かも知れませんが、実は黒字の部分があるんですね。つまり、芦屋市の美術館がここにある、それだけで寄贈作品がどんどん集まってくるわけでしょう。もし市がお金を出して買えば、莫大な金額になるはずです。年月が経てば、これは市民にとって非常に大きな蓄積となるでしょう。市の方も役所に帰って説明していただきたい。赤字だけではなく、黒字の部分がある、ということを」

 というのは、これまでの美術館活動を最もよく理解し、支援するひとの意見だ。ただ、こういう意見は少数派で、同集会の一般参加者の多くも、美術館というものが、例えば図書館のように身近な公共施設ではなかったとして、まず、それをいかに改善するかという意見が多数を占める。

 「……『国際文化住宅都市』に相応しいこんなに立派な芦屋の財産をなくすなんて、どういうことなんでしょう。ただ、立地の悪さのために、市民もこれまで必ずしも行きやすくなかったのではないか、と思います。建物もどうも入りにくいというか、図書館なら気軽に入れるのでが」

 「……この館が民間に移譲されるに至った根本的な原因は、芦屋市民にとって非常に親しみのない、閉鎖された存在だったからだと思います。文書や古地図を見せてほしいといっても、展示のあるときしかだめだ、といわれました」

 「私は音楽をやっていて、ここを市民の場として解放してもらえないかと、常々考えていました。ここはベーゼンドルファーという、すごくいいピアノを持っていたんですね。それを使えば音楽会もできるだろうし、空いたスペースがあれば市民ギャラリーとして貸し出すこともできるでしょう。アカデミックなものも必要だとは思いますが、もっと市民に身近なものもやってほしい、とずっと考えていました」

 等々、ここで語られている様々な発言を追って限り、住民の美術館に対する関心や期待は結構なもので、将来の展望も満更ではないように思える。ただ、本当に、彼らの欲求や期待に応えるのが美術館でなければならないのか。また、美術館というものが、本当にそういった要望を総て背負わなければなければならないのか。正直なところ、甚だ疑問は膨らんでくる。既成事実としてのみ、美術館の現状を受け入れ、それを今後いかに維持、展開していくかに問題に終始しているようだ。勿論、それも致し方ない現状は分かる。が、やはり美術館というものが担うべき、基本的役割や意義というものを、もう一度問い直さない限り、芦屋市はもとより日本の美術館問題というものは、何も解決しないのではないまではないか。例えば、このワーキンググループの集会でも、度々話題となった、NPO法人による運営や民間ボランティアによる協力体制作りにしても、だ。

 ボランティアに関しては、まさに住民が支える“開かれた”“地域に密着した”美術館実現のための救世主のこどく言われがちだ。以下も、同集会での一般参加者の発言の数々だが。

 「美術館などを運営する際、一番大きいのは人件費です。アメリカの西海岸の、リタイアされた方がたくさん住む地域に、小さな水族館があって、そういった悠々自適の方々を募集し、組織的に教育して、何百人単位でボランティアを採用しているんです。イベントのスタッフをしたり、観客に対して解説をする、そういうのは何人いてもいいわけで、逆に水族館がスタッフを育てているということが、啓蒙活動にも直結しています」

 「私はアメリカの歴史協会でインターンをしたことがあるんですが、そこでも地域の資産であるミュージアムをどう守っていくか、ということで市民ボランティアが積極的に活動していました。教育は必要ですが、ボランティアというのは、地域の価値を上げるために喜んでゆってくる人たちですから、そういう市民の巻き込み方をうまくデザインすれば、この美術博物館もかなり見直されると思います」

 「人に来てもらうことを考えると、業態としては、美術館はサービス業ですね。しかし、ただ作品を並べて、字を書いて、どうぞ来てご覧下さい、こんなのサービス業でも何でもない。やはり魅力を知ってもらうためには、ポイントを解説してもらったほうが面白いし、魅力を感じると思うんです。

 そういうのはどうしても人手が要ります。専属で朝から晩までやると大変だし、専門技術を持った人だとお金がかかる。それをサポートするボランティアを育てていくべきでしょう。企画内容ももちろん大事ですが、ボランティアの手も借りながら、実際の展示場における市民への働きかけを、もっと考えるべきです」

 これらの意見のように、住民が自らの地域の美術館を支えるボランティア精神を育み、実践していくというのは、民主主義社会の大いなる理想。それをこれからの日本の美術館が目標に掲げることに異論はない。ただ、そのためには、より市民的に受け入れられるべき、“美術館”の理念や大義というものを確立することが、何よりもまず求められるはずだ。美術や美術館に対する、各々の好き嫌い、関心・無関心を越えて、その存在意義が多数の住民にとって納得出来るものでなければ、地域に根差し、住民によって支えられているとも言えないし、ボランティア活動というものも真に受け入れらないのではないか。日本の公立美術館が住民のボランティア精神を育み、支えられるためには、美術館を理解し、支持してくれる人々ではなく、むしろそれに無理解または無関心な人々をこそ、納得させられるような、存在意義や価値観というものが問われなければならないだろう。それがなおざりにされていることで、ボランティアというものが、一種趣味的活動と受け取られたり、美術館側にとっては少々手のかかる無給のお手伝いさんという域を出ない、ということにもなる。

 それに関する懸念は、集会でパネリストの角野教授も指摘している。

 「ここで気をつけなければならないのは、行政にお金がないから、その分を市民に任せたらええやないか、それは絶対に違います。行政の下請けという発想では、NPOもボランティアも継続しません。最初だけです。

 ボランティアであれ、NPOであれ、それ自身がちゃんと成立し、継続するような体制をむしろ作らないといけない。その中にお金も入るんです。いつまでも持ち寄りだけでは続きません。1万円の会費を10年払い続ける保証はどこにもないんです。どんなにがんばったって3年ですよ」

 理想論では美術館は成り立たない。大切なのは、何よりもまず、日本の美術と美術館が立脚している、現状の把握なのだ。



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