連載

              
国立新美術館とは何か?
            
〜あまりにも“日本的”な美術の現実


               美術ジャーナリスト:藤田一人
Kazuhito Fujita

第5回 8月29日
 第1回

 第2回

 第3回

 第4回

 第6回

 第7回

 第8回

 追記
2005年7月



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国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人
































国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人


































国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人
































国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
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国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人





























国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人




















国立美術館とは何か?
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あまりにも“日本的”な美術の現実
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国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人

■“国立新美術館”という名称

 前回の最後にも書いたが、“国立新美術館”と言う名称の理由について、もう少し詳しく説明すると。文化庁の見解は、まず同館が、現在の独立行政法人・国立美術館4館に次ぐ5館目の施設となることが、大きな理由だったという。

 東京と京都の国立近代美術館、東京の国立西洋美術館、大阪の国立国際美術館と現在の4館は、“国立”という言葉が頭に付くことから、それを踏襲。さらに“新しい”美術館としての機能をもつ“新美術館”というイメージを前面に押し出す。その条件を満たし、最も単純明快に示したのが、“国立新美術館”なる名称だったというわけだ。

 ただ、揚げ足を取るわけではないが、国立近代美術館の2館は、各々東京国立近代美術館、京都国立近代美術館と称され、“国立”という言葉が頭に付いているわけではない。そういう意味では、文化庁の説明も、少々苦しく、取って付けたような印象もないではない。

 とは言え、正式名称が決まった上は、今後は、“国立新美術館”の名の下に、“日本”という国家が、“新たな”美術館に託すべき展望と課題、さらにそれを取り巻く状況を、さらに掘り下げていくことにする。

■自立出来ない美術家達

 今年、2003年ゴールデンウィーク真只中、5月3日の憲法記念日。この時期、東京都美術館で公募展を開催している国画会が、同美術館の講堂を会場にしてパネルディスカッションを企画した。題して「可能性−21世紀の公募展 芸術家・美術団体そして現代社会」。パネリストとして、美術評論家の瀬木真一氏と朝日新聞学芸部の田中三蔵編集委員を招き、司会の国画会絵画部会員の藤本洋文氏を司会に、絵画、彫刻、写真の会員各1名が参加した。

 そのタイトルからも分かるように、そのパネルディスカッションには、公募美術団体の現状確認と将来への展望を問うものだった。そして、そこに横たわる大きな課題の一つに国立新美術館への移転問題があり、それが引金となってこのようなパネルディスカッションが開催されたことは間違いない。ただ、そこで“公募展の未来”ではなく、逆に、今日の公募美術団体とそれを構成する美術家達の将来に対する漠然とした不安感だけが浮かび上がる内容になったのは、実に皮肉だ。が、それこそが、国画会だけではなく、他多くの美術公募団体の現状なのだ。

 パネルディスカッションは、日本の近・現代美術史上大きな役割を果たしてきた“美術団体”と“公募展”の影響力、存在感が低下しているという認識にたって、国画会の会員達が、自身取り組んでいる様々な活動とその模索を語るとともに、二人のゲストパネリストに国画会と公募展のあり方に対する、外部からの意見を聞くという形で進められた。

 そこで、瀬木氏は、美術団体というものは、本来“美術運動体”だという認識に立って、今日の美術団体無用論を展開。“美術運動”としての理念を持っている団体ほど、審査や会の運営を巡って、会員の間での意見や方向性の違いが出てきて、分裂を繰り返してきた。日本の美術団体史は、まさに分裂の歴史だ、と。しかし、現在の既成美術団体は、“美術運動”の理念や情熱はおろか、分裂するエネルギーすら失ってしまっている。ただ、惰性的に組織を維持し、展覧会を開催しているだけだ。そんな美術団体など、今日の美術においては何の意味も役割も持たない。それに、本来、芸術という行為は、あくまで個人が主体。美術団体に所属している美術家達も、自身の活動のあり方を団体に頼るのではなく、一個人として、しっかりと自分自身の足で立って活動すべきだ。と、国画会の会員達を挑発するかたちになった。

 まあ、こういった意見は、3、40年もまえから盛んに言われてきたことで、今更、という感じは否めない。が、逆に、それに対して、以前のように猛反発するのではなく、かといって、“美術運動体”というような過去の既成概念ではなく、もっと現実的で今日的な美術団体の役割や有用性を主張することも出来ない、美術団体の側には、確かに大きな問題がある。それをより顕著に示したのが、朝日新聞の田中三蔵編集委員への国画会会員達の問いかけだった。それは、「何故、朝日新聞が恒例だった公募展評を止めたのか?」ということ。

 戦前から、春・秋の美術団体展のシーズンには、新聞をはじめとする主要メディアが、恒例として主要団体展を取り上げ、各々論評してきた。しかし、1990年代に入って、その恒例が徐々に崩れ出し、まず、毎日新聞を最初に、朝日、読売の所謂三大紙が、公募団体展評を止めた。さらに時を同じくして、NHK教育テレビの「日曜美術館」でも公募団体展の紹介をしなくなった。つまり、影響力の大きい新聞、テレビという主要メディアにとって、美術団体展というものが今日的美術状況としての注目度が低くなった。というより、注目しなくなったといって言い。

 では、なぜそんな美術団体の活動に目を向けていないメディアの担当者を、国画会はシンポジウムのパネリストとして呼んだのか。それは、言うまでもなく、文化・芸術に特に影響力のある朝日新聞が、自分達も含めた美術団体展を取り上げなくなったことが、今日の美術団体の存在感と求心力の低下の大きな要因だと、各会員達が思っているからだろう。では、何故美術団体の公募展が主要メディアで取り上げられなくなったのか。メディア側の美術団体に対する意識や評価を確認し、それに対する的確な対応をすることで再び朝日をはじめとするメディアに載ることによって、美術団体や公募展の閉塞的現状も打破できるかもしれない。そんな甘い期待もあるのだろう。
考えてみれば、それは国画会をはじめとする今日の美術団体の危機感の表れともいえる。が、なんと他力本願で、主体性のないことか。

 そんな美術団体側の現状に対する不満と不安が入り混じった問いかけに対し、田中編集委員は、おおよそ次のように答えた。それは美術団体展に対する評価の問題ではなく、ますます多様な広がりを見せる今日の美術状況にあって、限られた紙面のなか、その現状と意味を、一般の人々にいかに的確に伝えていくかと考えたとき、従来のように美術団体展を恒例として取り上げていてはバランスがよくない。特に、1980年代以降、全国の美術館が意欲的な活動を展開してきたなかで、新聞の美術評もそれにシフトせざるを得ない。それは、新聞記者として実に真っ当な現状認識と言っていいだろう。

 それを聞いていると、「またか」という印象は否めない。早い話、今日、美術団体の公募展は現代美術状況の趨勢ではないのだ。そのことは、当の美術団体の会員や出品者達も当然感じているのだ。にもかかわらず、絶えず時代の趨勢を追うべきジャーナリズムに、かつての権威が失った既得権の回復を求めても、一体何になるのだろう。そういう意味では、今日の美術団体は、後ろ向きに過去の栄光を追っていると言われても致し方ない。そんな現状認識もしっかりは把握、確認出来ない者達が、どうして自己表現なるものを追求し、自らの存在感をアピールすることが出来るだろうか。今日の美術団体にとって最も大切なことは、例えば“美術運動”というようなかつての理念や価値観、または歴史的幻想に囚われることなく、それを構成する人々にとっての等身大で切実な欲求を把握し、具体化することではないか。それは、美術団体に限らず、社会におけるあらゆる団体・グループが負うべき役割なのだ。“美術・芸術”といえども何も特別なことはない。

「今日の美術団体には、確かに様々な問題がある。しかし、美術団体が歴史的に大きな役割を果たしてきたこともまた間違いない。そんななかで、今後美術団体が新たな展望を開くにはどうすればいいか?」

 そんな国画会会員からのいかにも切実な問いかけに対して、“公募展無用論”を譲らない瀬木氏に比べ、幾分理解を示した田中氏はこう言ったのが実に印象的だった。

「国画会も創立から70年以上という長い時間が経過して、創立当初の理念といえるものが、現状と合わなくなってきて当然。そんななかで、新たな展望を求めるとするなら、まず現状に応じた新たな理念の確立が必要なのではないか」と。

 それは、まさに尤もな答えだ。ただ、その“新たな理念”というものが、単に“新たな芸術的理念”にとどまるのなら、あえて今日日本の美術団体としての現実的な存在価値を見出すことは難しいだろう。
「一体、美術団体とは何なのか?」「日本の美術家達は何のために団体を作り、育んできたのか?」

 そういった、根本的な問題を、単なる“芸術論”や“美術史論”を超えた、幾多の美術家達が現実社会に生き、これからも生きていかなければならないというような、もっともっと、生々しくも真摯な問いかけのなかから、より現実的で説得力のある“新たな理念”を、各々が確立していかなければならないのではないか。

■最も現実的課題としての“国立新美術館”

 このように、今日の美術状況のなかで、その存在意義と存在価値に不安を募らせている美術団体にとって、将来の命運を分けるともいうべき大きな課題が現在目の前に突きつけられている。それが、“国立新美術館”の問題に他ならない。

 これまでも書いてきたように、その構想は、もともとは影響力の低下を感じ始めた日展をはじめとする既成の美術団体の幹部達を中心に、もっと充実した活動の場をということで、政治家への陳情が繰り返された末に、実現した施設だ。本来なら、彼らはもっと意欲的に、かつ将来への新たな展望を、その新しい施設に託すべきところだ。

 しかし、多くの団体がどこかにしっくりと来ないものを抱えていることもまた、確かなことだ。問題は、ただ新しい施設に移ればいいというものではないのだ。

 勿論、国画会のシンポジウムでも、最後にその問題が当然とりあげられた。

 これに対しては、国画会側は、「利用料金など主な条件が未だ決まっていない段階で、はっきりと断言は出来ないが……」。と、前置きしつつも、「国画会としては、出来うる限り“ナショナル・ギャラリー(当時)”に移りたい希望を持っている」と語った。
 その最大の理由は、「何より展示の壁面が増えて、今日のように狭いスペースに詰め込むのではなく、一点一点をゆったりと展示いて、作品を現在よりも出来るだけ見やすくしたい。という気持ちが、会員、出品者の意向として大きい」というのだ。

 それは、国画会ならずとも、多くの美術団体が新設される国立新美術館のメリットとして語ってきたことだし、これまで、日展をはじめとする美術団体が、東京都美術館に代わる新しい美術展示施設を、と政府に陳情し続けてきたのも、“より広い展示スペース”の確保というのが、というのが最大の理由だった。

 しかし、それに関して、当然疑問の声は挙がる。シンポジウムでも、パネリストの瀬木慎一氏は、一言こう釘を刺した。

 「現在の都美術館のように二段掛け、三段掛け、さらに酷くなれば四段掛けと言った、美術作品を見せるという意味では、考えられないような、展示方法を取らざるを得ない。という状況から脱却したいという気持ちは分からなくはない。が、例え展示スペースが増えたところで、最初のうちはいいが、そのうち余裕があると、段々と入選作品を増やしていって、結局また、二段掛け、三段掛けのぎゅうぎゅう詰めの展示になるのは、目に見えている」と。

 つまり、今日の公募展の運営方法として、とにかく出品者を増やす。そのために入選作品を一点でも増やしたいという現状なら、どんな会場に移っても、結果は同じだということだ。当然、今日の公募展の経営状況を考えると、確かに、その経営の経済的基盤は一般出品者の出品料がしめる割合が大きい。そうなると、展示スペースに余裕が出来たからといって、出品作品の大きさの制限を拡大したり、複数入選・展示をしたり、また、一点一点作品の間隔をとって、ゆったりと展示して見せることより、一点でも入選作品を増やすことに、傾いていくことは確かだろう。

 なぜかというと、今日でも、厳選をすると次ぎの年の出品者が減って、入選率を高くすると、次ぎの年の出品者が増えるというのが、各団体ともほぼ同様らしいからだ。一般の出品者にとっても、わざわざ落とされるために、お金を払って出品したくないというのが、本音というところだろう。

 そんな、美術団体の公募展の現状をさらに助長することにどれほどの意味があるのか。というのが、多くの美術評論家やジャーリストの本音ではある。

 瀬木慎一氏は、“公募展無用論”の持論からも、“国立新美術館”のような“美術館”とは名ばかりの公募展用の“大型貸し会場”の新設など、もはや時代遅れで、今日の日本の美術状況においては、何の意味もないと一蹴。

 朝日新聞の田中三蔵編集委員も、「既存の美術館に充分な予算が充てられない時代に、公募団体展のためだけに、国が多額の予算をつぎ込んで、新たな大型施設を建てる意味はどこにあるのか。個人的には、決して賛成出来るものではない」という。

 “国立新美術館”というものは、それだけ、美術評論家やジャーナリストからは大いに批判の対象というわけだ。

 それは、考えてみれば、当然といえば当然で、すくなくとも、戦後の美術ジャーナリズムは、美術団体と公募展に関しては、時代の流れと逆行するものとして、批判的立場に立つことが多かったのだ。そういう意味では、今日の公募展低迷の状況というのは、美術ジャーナリズムの予想どおりなのだろうし、三大紙をはじめとする主要マスメディアが、美術団体の公募展を取り上げなくなったというのも、美術団体の人々にとっては、面白くない話かもしれないが、それが現実の趨勢なのだ。間違いなく、今日、美術団体とその公募展は時代の趨勢からはずれ、注目を浴びない存在になっていることは、確かなのだ。

 ただ、時勢としての逆境はいつの時代でもある。問題は、逆境にあるものが、いかにそれを自覚して、逆境を跳ね返し、未来に新たな可能性を見出すかということだ。

 ある意味、如何なる形でも、政府を動かして、国立の施設として、その拠点となる新たな展示施設を獲得したということは、本来、各美術団体にとっては、もっともっと積極的にそのメリットを活かした新たな活動の可能性とその存在の意義を模索し、社会に主張すべきなのだ。

 しかし、各団体の“国立新美術館”への対応を見ていると、すべてが受身というか、極力現状維持の形で、少しは待遇がよくなれば、という程度に過ぎない。

 何故、東京都美術館より、六本木に新設される“国立新美術館”なのか? という理由に、単に、スペースの問題として、もっと大きな作品をゆったり展示したいというだけでは、あまりにも、知恵が無さ過ぎはしないか。今日、町の様々なギャラリーをはじめ、各公立美術館や公共の文化施設に設けられている県民、市民ギャラリーや多目的スペースなどは、その規模も充実し、料金的には市価では考えられないくらい安く借りることが出来る。そんななかで、その気になれば、大作を複数並べるスペースなど、個人やグループで結構確保できる。そんなことをわざわざ今どき美術団体の公募展に真剣な求める者がとれほどいるだろう。“もっと広く、充実したスペースを”というのは、一種長い間言われ続けてきた決まり文句のようなもので、実際のところは、もはやそれほど切実な意味は持っていないのではないか。強いて言えば、美術団体とその公募展に各出品者が求めているものはそれ以上に重要なものが多々あるではないか。


■本音としての“美術団体”の存在意義


 今日の各美術団体は、そういった出品者、会員等の真の欲求、つまりは美術団体の現状をしっかりと把握することなしに、時代遅れの状況や概念を未だにひたすら追い求めているようなところがある。
それを象徴的に示すのが、先の国画会のシンポジウムで採り上げられた、“なぜ団体子公募展が新聞で取り上げられなくなったのか?”という問いかけだ。

 その答えは言わずとも単純で、早い話が、各公募団体展が一般的な話題を持たず、一見して展覧会としてつまらない、と、ジャーナリズムや評論家達に感じられているからだ。で、「詰まらない」と感じている人間に、とんなに「なぜ、採り上げてくれないのか?」と問うてみても、とかくせん無いこと。さらに、ジャーナリズムにあわせて展覧会の内容が一気に転換できるほど、公募展のあり様というものが、その構成員にとって地に足の付かない、必然性のないものではないだろう。

 なら、何故自分達の必然性に目を傾けず、「つまらない」と感じている者に、かつて既得権があったからといって、それを再び復活させてもらおうというような他力本願になるのだろう。その自身の無さこそが、今日の美術団体の劣勢を如実に示していると言っていい。

 例えば、現在の美術団体の組織力を持ってすれば、自ら雑誌等の媒体を作って、今日ならばそれを書店の販売ルートに乗せることもそう難しくはない。また、それが一団体単独で出来ないのなら、現在、東京都美術館を拠点に展覧会を開催している独立、国画、新制作、二紀といった主要17団体によって構成されている美術団体懇話会が、参加団体の公募展批評誌のようなものを作ればいいではないか。昨今のような出版不況のなかで、出版社も最低限の製作資金と最低固定読者が確保されている出版物なら、喜んで受け入れることだろう。つまりは、各美術団体も、様々な工夫のもとに、自力で社会的なアピールを展開していくべきなのだ。

 そのためには、まず、何より、美術団体とその公募展の意義を、本音で考え、言葉にしていくことだろう。つまりは、美術団体は“美術運動体”だというような過去の幻影に囚われることなく、いま現実に美術団体に所属し、公募展に出品している人々の本音。一体、自分達は何のために美術団体の公募展に出品し始めたのか。そして美術団体に所属していることのメリットとは何なのか。かつてのように、“公募展ありき”の時代ではなく、美術家としての活動にも様々な方法が切り開かれている現状において、なぜ“美術団体の公募・展”か?現代の美術家達にとってのより現実的な欲求を反映する、美術団体というものの今日的な意味の確認と主張が求められるのだろう。

 では、一体美術団体の今日的意義とはなんなのか。私なりに考えると、それは、ロングスパンで考えた今日の美術家として生きていくための安定した足場の確保、確立ということではないか。分かりやすく言えば、日本企業における終身雇用制の希求と言ってもいいのかもしれない。

 昨今の特に現代美術においては、“国際性”や“市場性”を重視する傾向が強くなっている。それは言うまでもなく、競争社会と市場経済に美術家の活動と基盤を委ねるということだ。勿論、欧米の国際的美術市場とはそういう傾向が強く、それに如何に対応していけるかが、日本の現代美術の世界への道を開くということにも繋がる。現在、国際的に評価を得て、若い世代に支持されている、村上隆や奈良美智は、まさにそのシンボルといっていい。今日の若い美術家達にとって、それは大きな憧れであり、目標でうることは言うまでもない。そんななかで、似たもの同士が、小さい世界に群れているような印象の強い美術団体は、まさに旧態依然として、忌み嫌われる対象なのかもしれない。

 しかし、今日、日本の美術家といわれる、また、それを志す圧倒的多数が、“国際的市場”や“商業主義的”競争を望んでいるとは思えない。むしろ、毎回毎回、展覧会の毎に新たな展開を示さなければならないことが結構苦痛に感じる場合も、多々あるだろう。市場というのは、どこでもいつの時代も結果しかありえない。

 今日の日本社会が、そういったアメリカ型の競争社会に向かっていることは確かだ。ガ、多くの日本人が本当にそれを望んでいるのかというと、そうではなかろう。特に、大企業に勤める多くが、従来の終身雇用体制を望んでいるということは、確かなことなのだ。それを、自立性が乏しいとか、国際的競争に勝ち抜けないという言われることも分からないではない。が、多くの日本人が本音として望んでいるものであるならば、それを尊重せざるを得ない。

 同様に、美術・芸術においても、例え美術団体というものが日本の美術の自立や国際性とは逆行するような旧体制の組織であっても、そこにある、日本において美術家を名乗るべき安定感というものは、美術活動=金に集約することの出来ない日本の美術家達の現状にあっては、切実なものなのだ。

 それが、良い悪いは別にして、日本の多くの美術家と称するものは、美術団体に所属し、一年に一度、団体公募展に出品すれば、自らを美術家として自覚出来、それが、美術家として世の中に生きていく一つの証明となるのだ。もし、美術団体とその公募展が存在しなければ、自分を美術家むであると、どれほどの者が自信を持って生きていくことが出来るだろうか。勿論、それには問題も多い。美術家という存在が、玄人も素人も玉石混合となって、実に安直に語れるというということは否めない。しかし、日本の芸術・文化状況とは、美術はもとより、文学も演劇も、また映画にしても、それが経済活動の上に構築、展開されてきたのではなく、その多くが、個人個人の生き方の理想、夢の発露として展開してきたのだ。それゆえの、自立性の乏しさと、社会的影響力の弱さは否めないものの、一種絶対的な個人的な純粋性を、小さい世界のなかで、素朴に育んできたとも言える。そして、良くも悪くも、そこに日本の芸術の特質があるのではないか。

 そういう意味では、日本の美術団体とその公募展というのは、日本の多くの美術家にとって、美術界なるものへの足掛かりであり、帰属を実感出来る、もっとも身近な組織であることは確かなのだ。それは、私達の多くが社会に出ようとする時、まずは会社に入るというのと同じような雰囲気を持っている。

 しかし、今日美術団体を構成している多くの美術家達は、そんな当たり前で、等身大の社会組織として美術団体を捉えることを回避しているようなところがある。いわば、かつての“美術運動体”というような、いかにも崇高気な言葉の響きや芸術幻想に自らも取り込まれて、その本質を回避しているような気がしてならない。そんな自らの足場に対して、的確な現状認識が持ち得ない者の言葉や活動が、どれほどの説得力を持つだろう。
 今、美術団体にとって重要なのは、美術団体と公募展が置かれている現状とその本質から目をそむけることなく対峙して、絶えず不安定に揺れ動く日本の文化状況のなかにあって、いかに等身大の安定した立脚点を確認し、多くの美術家が希求する安定した活動の拠点を指し示すことではないか。

ナショナル・ギャラリー(仮称)とは何か?


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