連載

               
ナショナル・ギャラリー(仮称)とは何か?
            
〜あまりにも“日本的”な美術の現実

          *第5回からはタイトルを国立新美術館とは何か?に変更しました。
               美術ジャーナリスト:藤田一人
Kazuhito Fujita

第4回 7月15日
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 追記
2005年7月




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国立美術館とは何か?
あまりにも“日本的”な美術の現実
文●藤田一人

























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あまりにも“日本的”な美術の現実
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■美術家のための“ナショナル・ギャラリー”構想

 昭和44年、東京都美術館の改築を巡る、既成美術団体の新たな活動の拠点として、時の日展理事長・山崎覚太郎が「国立美術センター建設構想」を提唱したことは先に触れたが、それも旧都美術館の休館が回避されたことで、以後議論は盛り上がることなく、いつの間にか消えていった。

 しかし、昭和52年(1977年)、当時、自民党政調会長をつとめていた旧田中派幹部の衆議院議員・江崎真澄が日展を観に訪れた際、出迎えた時の日展理事長で日本画家の奥田元宋らから、日本を代表する美術団体公募展を開催する環境として、都美術館の現状は不都合が多く、国でそれに相応しい新美術館の建設を検討してくれないか、という陳情を受けたという。その後、奥田ら美術家6名の連署による「ナショナル・ギャラリー設立請願書」が文化庁に提出された。そうして、同年12月には、江崎の尽力により、文化庁予算として、「国立文化施設整備のための調査研究費」1500万円の予算が計上された。

 さらに翌年には、日本芸術院第一部長・彫刻家の北村西望を代表として、美術分野の日本芸術院会員49名による「東京国立現代美術館に関する要望書」に合わせて、美術関係者47,405名の陳情書が文部大臣に提出され、同年も文化庁予算として、調査研究費が計上された。しかし、翌54年に石油ショックが起こり、国民生活を直撃した経済混乱のなかで、美術家達のナショナル・ギャラリー建設運動は挫折することになる。

 それから9年の歳月が流れて、時はバブル経済最高潮。その時代に三度、日展を中心とした美術家達によって、ナショナル・ギャラリー建設運動は最熱することになる。

 今度の主役は、日展・書の大家・金子鴎亭と時の自民党のドン・金丸信、そして野党第一党・社会党の書記長・田辺誠だった。金子は、まず友人の社会党・国会議員に「ナショナル・ギャラリー建設」の必要性を語ったところ、それが田辺に伝えられた。そして、当時、その親密さがニュースでも話題になっていた田辺と金丸の関係から、金丸信を動かすことになったというのだ。

 そんな経緯のなかで、十数の主要美術団体の代表が集まり、二科会理事長の洋画家・吉井淳二を会長、日展工芸の橋節郎を副会長に、「国立現代美術館建設を促進させる会」を発足させ、「ナショナル・ギャラリー設立に関する陳情書」を時の小渕恵三官房長官らに提出した。そして、平成元年(1989年)に再び研究調査費が文化庁予算として計上されるとともに、翌2年には、専門家による委員会での協議の下、外部機関に基本構想等の研究を依頼し、具体化を図るという検討が始まった。

 しかし、平成4年(1992年)には佐川急便事件で金丸信が議員辞職、また、もう一人の推進者だった田辺誠も土井たか子の後任として就任した社会党委員長を辞任。その後、日本美術家連盟の代表が衆議院議員・塩川正十郎の仲介で文化庁長官にナショナル・ギャラリー建設の陳情を行なうが、それもいつの間にか尻すぼみになって消えていった。

 そうして、55年体制といわれた自民党単独政権時代が崩壊。細川、羽田の非自民連立内閣を経て、平成7年(1995年)異例の自社連合村山内閣になって、四度ナショナル・ギャラリーの建設構想が急浮上。日本の経済状況は構造不況の真っ只中にも関らず、公募団体を基盤とする美術家達の念願の巨大プロジェクトが本格的に動く出すことになったのだ。

■誰のための美術館か

 構想四半世紀、今日の「国立新美術館」はまさに満を持した日本の既成画壇と美術行政の成果を示すものと言っても過言ではないかもしれない。ただ、実際のところ、それに見合う切実な意識や将来への展望があったのか、というと、それははなはだ疑問だ。

 現在、ナショナル・ギャラリー設立準備委員会委員の一人である、二紀会理事長の山本貞氏は、「ナショナル・ギャラリー(仮称)」の建設の経緯をこう冷静に見る。

 「現実世界の物事というのは、理念や構想の内容というより、結局はお金の問題が大きく左右する。行政の場合は、予算が付くか付かないか。確かに、ナショナル・ギャラリーの構想も以前からさかんに運動が展開されてきた。私も1989年頃から多少関ってきました。そんななかで、ナショナル・ギャラリーの建設構想が、美術家の間でずっと引き継がれて今日にいたったと、話としては成立するかもしれないけれど……。実際問題として、それは全くないと言っていい。とかく、絵描きがやることだから、体系的にどうだ、こうだというのは、期待するだけ無理というもの。早い話が、以前も政治家との話し合いのなかで、いいところまでいったけれど、結局は建設予算が付くまでにはいたらなかった。ただ、今回は、幸運にも、予算が付いて、建設実現にまで至った。私達は、その現実をいかに有意義に利用していくか。それをとりあえず考えるべきだと思うんです」

 山本氏の認識は、実に明快かつ正確で、まさに現在の日本の文化政策をズバリ言い当てていることは確かだ。

 とは言うものの、従来、東京都美術館を使用してきた美術団体の美術家達は一体何を新たな“ナショナル・ギャラリー”なるものに求めてきたのか。それは、ある意味、日本の美術家の美術館なるものに対する本音の部分での期待と認識を示すものではあるだろう。それを如実に示しているのが、昭和53年(1978年)美術分野の日本芸術院会員連名による「東京国立現代美術館建設に関する要望書」の文面だろう。
    
――――――――――――――――――
 1. これまでの国立の博物館あるいは美術館は、すべて過去の美術品か、またはすでに社会的評価の定着した作品の展示の展示場のみでありました。政府は之に加えて、現代美術の振興をはかるため、国立の現代美術館を建設してほしいと思います。
 2. 新東京都美術館は、昭和50年9月に開館しましたが、その建設費はすべて東京都民の負担によって調達されたため、東京都民のための美術振興をはかることを第一目的としております。したがって旧東京都美術館が50年にわたって果たしてきた首都美術館としての歴史はここで大きく転換し、大規模の美術展覧会の開催は不可能に近い情勢となり、美術界としては重大な局面を迎えつつあります。この際政府は全日本的意義を持つ各美術展覧会開催のため、首都東京に「東京国立現代美術館」を早急に建設してほしいと思います。
 3. 明治、大正、昭和3代にわたって巨匠、大家と仰がれた美術家は、すべて公募の美術展から輩出しました。また日本の新しい美術運動も、新しい美術家の発掘も、すべて公募展によって実現をみたものであります。東京国立現代美術館の建設にあたっては、現代日本を代表する各美術団体の公募展開催に必要な機能を、充分に備えるように配慮してほしいと思います。
    ――――――――――――――――――

 この陳情書をみると、あくまで、日本の現代美術状況全体に配慮しようとはしている。が、この提案があくまで第三の項目に重点が置かれていることは言うまでもない。何故、あえて公募団体展なのかは、日本芸術院会員のほとんどが美術団体出品者であり、自分達の活動拠点として確保と充実ということが、最大の目的になっているのだ。しかし、様々な問題はあっても、新都美術館に引き続き場を確保した彼らが、なぜ“首都美術館”と称する新たな施設を求める必要があったのか。そこには、単にスペース、ハードとしての施設の問題ではなく、“美術館”というものに対する考え方の問題が大きく作用しているような気がしてならない。

 それもこれも、東京都美術館改築にあたって、既成の有力公募団体に関する既得権が問題になり、美術団体に対する批判が無所属美術家はもとより、美術評論家のなかでも大きな問題になったことが一つの切っ掛けとなったのとは間違いない。事実それ以後、1980年代に入り、地方の公立美術館の建設ラッシュのなかで、公立美術館のあり方が少しずつ変化することになる。それまで大体、公立美術館というものは、地元の美術家が中心になって建設運動が盛り上がり、建設にこぎつけるというケースが多かった。当時もそれが主流だっただろう。ただ、その運営の主導件を握るのは、実質的に学芸員達で、地元の有力美術家達ではなくなりだしたということが大きな変化だった。

 そして、東京都美術館を巡るのとほぼ同様の問題が、地方の公立美術館を舞台に展開されることになった。例えば、1980年代初めに栃木県立美術館の北関東美術展を巡る地元美術家の美術館側の対立による当時の大島清次館長の辞任問題など。美術館を鑑賞者のための施設と考え、学芸員主導の企画、コレクション展開に対して、元々自分達の活動の場としての展覧会場を望んで運動してきた地元の有力美術家達の美術館という施設に対する考え方が異なっていたことが、それらの問題の根本原因となっていたのだ。

 それとともに、美術界の情勢も大きな転換期を迎えていた。従来の公募団体中心のあり様から、個展を軸とする現代美術家の活動が全体的にみても大きなウエイトを占めるようになる。彼らの仕事は、以前にも増して批評家を中心にジャーナリズムの前面に押し出され、美術館の学芸員達もそれを推進する側に回る。そうなると、なおさら公募展を主な活動の場とする美術家達は企画展から外されて、地方でも、地元とは全く関係ないような美術家ばかりが優遇されているという不満だけが残るというわけだ。そこで、美術館というものに対する不満は、結局のところ、その設立に貢献した自分達地元美術家にもっと優遇的に使用させろという新たな既得権の要求へと繋がっていく。

 従来、日本の美術家の多くが受け入れていた美術館の意識とは、あくまで自分達の爲の美術館なのだ。しかし、そういう美術館のあり方は、もはや時代の趨勢ではない。結局美術館は、学芸員達が支配しているではないか。だからと言って、唯々諾々と時流に流されていては、益々自分達は取り残されていくだけだ。なら、美術家達が運営の主導を握る美術館を建設する以外仕方ない。それがナショナル・ギャラリーという構想にも繋がっているといえる。

 昭和63年(1988年)「国立現代美術館建設を促進させる会」が提出した「国立現代美術館設立に関する陳情書」に提案された施設の運営に関する項目が最も象徴していると言っていい。

 同陳情要求第5条「この美術館の企画運営にあたっては、美術関系者の意見と自主性を充分に尊重して行なうものとすること」とある。

 これは、いうまでもなく、その施設を使用する美術家達の意見と自主性を充分に尊重すると読み替えてもいいだろう。なぜなら、改築前の旧都美術館は、主要美術団体の幹部達が多数を占める参与会なるものによって、展示室の割り当てや運営が行なわれていたという実績があるのだ、というわけだ。

 1960年代から参与会に参加し、当時ナショナル・ギャラリー建設運動を推進した金子鴎亭は、インタビューでこう語っている。

 「最初は寄付金によって建設された美術館ですから、首都にふさわしい発表の場であるべきだという考え方があり、実際、全国規模の団体の発表の舞台になっていったわけです。それが、東京都の50億円の予算によって改築されて、“都”の美術館になっていったわけです」(「新美術新聞」1989年4月1日付)

 しかし、実際のところ資金提供者であった佐藤慶太郎自身は、「寄付願」のなかで、「今尚一つの常設美術館をも有せざるは我国識者の海外諸邦に対し常に忸怩たらざるを得ざる所にして、又我古美術の保護を永遠に期し我が新美術の進展を未来に促す所以に非ざるべく思考す」とするだけで、美術団体の活動の場としての美術館を標榜してはいない。また、“首都にふさわしい発表の場”というのが、なぜ全国規模の公募団体にのみ提供されなければならないのかはよく分からない。が、彼らが“ナショナル・ギャラリー”なる名の下に、日本の美術家達が求めてきたのは、まさに“美術家の、美術家による、美術家のための、美術館施設”だったのだ。それは、美術批評家やジャーナリズム、さらには学芸員や文化官僚といった部外者から、あれこれと言われて邪魔されることのない、美術家達の“聖域”に他ならない。

 金子鴎亭らが言うように、日本の近代美術の主な部分が、美術団体というものによって展開し、多くの成果をあげてきたことは間違いない。ただその反面、画塾や美術団体という小さな組織のなかで美術・芸術の自由を謳歌してきた日本の近代美術は、一種現実社会の状況から隔離され、ズレを生じてきたことも、また事実なのだ。

勿論、美術家も一納税者として、現代美術の公共的な役割を主張し、それへの支援を政府に陳情するのもいいだろう。ただ、その場合、美術家の、美術家による、美術家のための美術館に彼らの追求する理想とともに、そこに潜む、大きな落とし穴は何処にあるのか。それを求める美術家達は、もっともっと謙虚に、冷静に考えなければならない。

 ただ、第三者から見れば、そんな美術家達の欲求を受け入れようとする今日の「ナショナル・ギャラリー(仮称)」は、どうしても時代遅れという感は否めない。そして、当然のごとく美術批評家やジャーナリズムからは評判が悪い。美術評論家連盟会長・針生一郎氏は、大いに皮肉を込めて、こう言い放つ。

 「日本美術のゴミだめを、国が作るというなら、それはそれで一つの役割があるのかもしれない」と。

 それはそれで、一つの認識としてよく分かる。が、現在のナショナル・ギャラリー(仮称)を巡る問題は、そんな批判のみですまされるほど、決して単純ではない。

 ところで、この稿を書き終えようとしていた6月20日過ぎに、ナショナル・ギャラリー(仮称)の正式名称が決まったというニュースを聞いた。その名も、“国立新美術館”。全国から公募で寄られた1006件のなかから岩手県在住の女性の案を参考に決定された、ということだ。“新しい”というイメージと“国立”ということを押し出したかったということか。で、普通なら“新国立美術館”というところだろが、“新”を中において、シンプルで少々目先を変えた名称という感じがする。
 とにかく、正式名称が決まったからには、以後この連載タイトルも、“ナショナル・ギャラリー”から“国立新美術館”に変更することになる。

ナショナル・ギャラリー(仮称)とは何か?

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