連載

         
ナショナルギャラリー(仮称)とは何か?
            
〜あまりにも“日本的”な美術の現実
           *第5回からはタイトルを国立新美術館とは何か?に変更しました。

               美術ジャーナリスト:藤田一人
Kazuhito Fujita

第3回 6月24日
 第1回

 第2回

 第4回

 第5回

 第6回

 第7回

 第8回

 
追記
2005年7月




参考写真

 →表示に時間がかかる場合があります

















ナショナル・ギャラリー(仮称)
とは何か?
あまりにも日本的な美術の現実
文●藤田一人



























ナショナル・ギャラリー(仮称)
とは何か?
あまりにも日本的な美術の現実
文●藤田一人





























ナショナル・ギャラリー(仮称)
とは何か?
あまりにも日本的な美術の現実
文●藤田一人


































ナショナル・ギャラリー(仮称)
とは何か?
あまりにも日本的な美術の現実
文●藤田一人

■“東京都美術館”という日本的美術館の雛形

 
今日の「ナショナル・ギャラリー(仮称)」の問題を考えていくと、日本の美術館のあり方の根本的問題に突き当たらざるを得ない。そしてそこには、日本初の公立による近代的美術館施設、“東京都美術館(開館当時は東京府美術館)”という存在が大きく横たわっている。

 明治以来、リアルタイムで展開されている美術家の活動の拠点として、またその公共的評価の場としての美術館の設立は、日本の美術関係者の懸案であり続けた。そんな美術館設立運動は、明治32年(1899年)、洋画家団体の明治美術会が国立美術館の設立要望を盛り込んだ「美術の保護奨励に関する意見書」を政府に提出し、政治的に働きかけたことに始まる。同意見書は、改めて「美術奨励に関する建議書」として時の衆議院に提出、可決されたが、実現には至らなかった。

 その後、様々な美術館構想が、美術家をはじめとする美術関係者の間で持ち上がっては、消えていった。

 そして大正10年(1921年)、当時の東京府議会議員・小池素康が翌11年開催の平和記念博覧会の記念事業としての美術陳列館の建議を提出。この案は、結局は可決には至らなかったが、小池は、美術家達にはたらきかけ、23団体の連盟で東京府知事らに具申書を提出。その後、全国の美術関係者が結集して、既成実行大会を開催。東京府主催の平和記念博覧会の美術館を恒久施設とするよう請願した。

 そして、神の巡り合せか、その時上京していた九州は福岡県の炭鉱経営者・佐藤慶太郎が新聞で美術館建設運動の記事を読み、東京府に美術館建設資金として、私財100万円を寄付することを申し出たのだ。公務員の初任給が75円の時代。日本で初めて公立の常設美術館の建設は、そんな物語的展開の下に急浮上。それを受けて、東京府が上野公園内の宮内省用地の貸与を得て、岡田信一郎が設計に当たり、同年9月に起工。大正15年(1926年)5月に竣工、東京府美術館が開館した。延べ面積8670uは当時、本格的な大型建築であったことは間違いない。

 しかし、同館は、独自の美術品コレクションを持ち、その常設展示や専門の研究に基づく企画展示を行なう機能を備える、欧米で言うところの美術館施設にはならなかった。勿論、欧米流の本格的美術館を求める意見もあったが、多くの美術家は、それ以上に自分達の新作を展示する会場を欲していた。当時は、美術家の発表の場は数少なく、めぼしい施設としては、明治の内国勧業博覧会の折に建てられ、上野・竹之台陳列館があるくらいで、それも老朽化が問題になって久しかった。そんな状況下、新設された美術館施設である東京府美術館は、美術家や美術団体への貸し会場としての竹之台陳列館の機能を引き継ぐものとなった。それは、“東京”なる日本の首都の名前を冠しているとは言うものの、日本国民のまたは東京府民のための芸術・文化施設としてではなく、あくまで美術家のための施設としての役割を果たすことになったのだ。その理由は、美術家達の運動や陳情に一後援者が資金を提供して出来た施設だという経緯が、本来、美術館の建設・運営の主体者であるべき東京府なる“公”に「何のための、誰のための美術館なのか?」という根本的な問題を不問に付すことになったことにあるだろう。

 日本で初めての近代的公立美術館である東京府美術館が、そういうスタートを切ったことは、前例主義が著しい日本の官僚社会にあって、以後の公立美術館なるものの重要な雛方になった。その雛形は、続く京都市美術館(1933年開館)、大阪市立美術館(1936年開館)に受け継がれ、今日に至る日本の公立美術館のあり様に大きな影響を与えている。

 その後、東京府美術館は東京都美術館と改称され、帝展・新文展・日展と続く官展はもとより、院展、二科、春陽、国画、独立といった主要公募団体展の会場となり、多くの美術家達の活動の拠点としての役割を果たすことになる。

 また、その他にも、新聞社主催の大型展の会場としても大きな役割を果たしてきた。例えば、戦中は、朝日新聞社と陸軍美術協会、軍報道部等が主催する聖戦美術展や大東亜戦争美術展の会場として多くの人々を集め、戦後は、毎日新聞社主催の美術団体連合展をはじめ東京ビエンナーレと称された日本国際美術展、現代日本美術展、さらには、読売アンデパンダン展といった、新聞社による新しい美術の潮流を紹介。各々の時代に応じて、日本のアートシーンをリードする舞台となってきた。

■東京都美術館改築を巡る問題提起

 その出発から、美術館としては様々な問題を抱えつつも、東京都美術館は、戦前、戦中、戦後に渡る日本美術の拠点として、大きな役割を果たしてきたことに間違いはない。

 そんな日本美術界と美術家達の拠点としてのあり方に、一つの疑問と問題提起が持ち上がったのは、昭和44年(1969年)のことだ。東京都美術館は、開館から時を経るうちに、その主な利用者である公募美術団体の増加と、各公募展の出品者の増加から、スペース的な問題が絶えず指摘され、昭和4年(1929年)、33年(1958年)と増改築を重ねた。33年の増築後の延べ床面積は17845uというから、開館時の約2倍の広さになっても、時を経るにしたがって、またまた利用団体から会場が手狭だという不満が出るとともに、建築自体の老朽化も問題になり始めた。

 そこで東京都では、諸問題を解決するために東京都美術館の本格的改築の計画が持ち上がり、都庁は勿論、日本美術界の大問題として激しい論争
が展開されることになった。

 同館を利用する美術団体は、「改築で同館が使えなくなれば、公募展の開催が出来なくなる」と危機感を募らせ、決起大会を開いて活動の場の確保を訴えた。そのなかで、東京という一地方自治体ではなく、国に美術家の活動を支える施設としての「国立美術センター」建設という、今日の「ナショナル・ギャラリー(仮称)」に繋がる要求が、当時、日展の理事長だった漆芸家・山崎覚太郎によって提唱されもした。

 一方、美術評論家連盟は、改築を機に東京都美術館が美術団体展の貸し会場として、独占されている現状を批判し、都民が名画を楽しめる真の美術館にすることを提案した。つまり、今回は、開館時とは異なり、東京都民の税金によって改築されるのだから、美術家のためだけではない、もっと大衆的支持を得るべき運営がなされて当然だという、正論が述べられたわけだ。

 そんな情勢を踏まえて、東京都は、旧館に隣接地に新館を建設し、工事のための休館という事態を回避するとともに、東大名誉教授の経済学者・脇村義太郎が時の美濃部都知事のブレーンとして、改革案を出し、従来のように公募団体展への貸し会場としての機能を踏襲するとともに、新たに独自のコレクションを持ち、学芸員を配して、企画展示を行なう構想を示した。つまり、課題を足して二で割る形で、美術団体の会場としての歴史的な役割とともに、都民のための社会教育施設としての要素を押し出すことになったのだ。

 そうして、昭和50年(1975年)に前川国男設計により、延べ床面積31977u、それまのでの約1.8倍の規模をもった新東京都都美術館開館が開館した。しかし、面積が広がったとはいっても利用する美術団体の意識は変わらない。旧美術館時代からの団体は当然のこどくより広くより良い条件を求め、一方、新たに利用を求める勢力は、公共施設としての既得権を廃し、あらゆるものに開かれた条件を求める。そこで未だ既成団体のみに優遇された借用条件に対して、様々な方面から不満が噴出。特に、「東京都民の税金を使いながら、都民にはその利益が還元されず、既成の美術団体の利権構造のみが守られるのはおかしいでしないか」という討議が持ち上がる。

 そんな新東京都美術館を巡る問題に精力的に取り組んだ一人が、美術評論家の針生一郎氏だ。彼は、当時をこう振り返る。

 「当時、僕は日本の美術機構の改革なしに美術の改革も有り得ない、という立場から、新都美術館を舞台にしたあらゆる運動に関った。その一つが東京展。最初に“都民に開かれた芸術祭”としての同展は、当時日本画壇の風雲児と称されていた中村正義の構想だった。彼の頭の良さは、“東京”という名前を押し出すことで、東京都民の税金で、都民のために建てられた新美術館が最も優遇すべきものだと印象付けたことだ。そうして、既成美術公募団体展の最大勢力・日展と同時期の最も注目を集める開催時期の会場借用を要求した。ただ、それは結局、中村正義の反日展運動という要素が強かった。それも含めて、様々な運営に関する意見の相違から、第2回展を前に僕は東京展から身を引いた。以後、“無所属作家組合”や“アーティスト・ユニオン”などの出発に立会い、従来公募美術団体にしか会場を貸し出さなかった現状を打破するために、無所属作家によるグループ展、連合個展のような形式で会場を貸し出される可能性を広げることをやってはきた。が、結局のところ、そのほとんどが、従来からの都美術館の美術団体展の枠に組みこまれたことは否めない。以降僕は、公募展は見ないという自分のなかでの掟をたてることになった」

 つまり、新都美術館を巡る様々な問題提起や運動も、既成画壇に対するあるアンチテーゼでしかなく、「都民のための美術館とはなにか?」という根本的な議論の盛り上がりにはほど遠いものだったということだ。しかし、そんななかでも、美術家の美術家による発表の場だという現状にある疑問が提起され、本来の美術館のあるべき姿とは何か?人々に開かれた美術館とは何か?という意識が、美術と美術館を取り巻く人々の間で芽生えたことは確かだ。そして、多くの美術家達は、自らの足元を見直さざるを得なくなったことも間違いない。そんな時代の変化のなかで、名実ともに美術家のための充実した作品発表の場を国の文化行政の一環として要求する「ナショナル・ギャラリー構想」が浮上することになるのだ。

ナショナル・ギャラリー(仮称)とは何か?

Copyright (c) 2003 Art Village All rights reserved.