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new2008.8.25
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岸本吉弘展

ワイルドネスと付き合う


文●石橋宗明
ISHIBASHI Muneharu
(美術展覧会企画者)

■岸本吉弘展
2008年6月19日〜29日
トアロード画廊
神戸市中央区元町通6丁目5番8号 松尾ビル
078−351−2269


 岸本吉弘が30代を迎える頃には既に、東京の名うての画商が彼の個展を開いていた。彼のことを知る人が、関東にも少なからずいるのはそのためである。また、上野の森美術館で行われるVOCA展に、2度出品したことがあるので(’01と’04年)、そこで彼の絵画に接した人も多いのではないかと思う(他には、倉敷の大原美術館などで見ることができる)。現在は関西に居を定め、神戸の大学で教えている。大阪と神戸の画商とも交流を深め、トアロード画廊での新作展は今回で3度目である。
 1)
 高度機械化文明の日常に埋没してしまっていては、早晩、人間はいじけてしまう。誰しもリビドー(心的エネルギー)を持っているが、高度機械化文明はそのリビドーを抑圧したり、弱めたりしてしまう。そのため現代人の多くは、様々な精神的不具合を抱え込んでいる。例えば、効率や速度が強迫観念となってその人の日常を支配するのなら、それは紛れもなく心の病である。
展示風景
この状態を、心的機械化人間と呼ぶ(私が勝手に名付けたものだ)。そして、心が機械のようになった人間が、人間らしい生き方を望む他者をも振り回すようになってしまった。高度機械化文明の最も醜い面である。
 「自然の中で時間を費やすことは、絵画表現を成立させる上で非常に重要だ」と岸本吉弘は言う。彼が自然環境に出向いて行き、そこに身を置こうとするのは、リビドーの高まりを取り戻すためだ。またそうすることで彼は、創造的情動を得ることができるのである。リビドーの高まりは、本能としてのワイルドネスを呼び覚ます。このワイルドネスが創造的情動を生み出すのである。これは、心的機械化人間が快復へと辿る道筋ともなるだろう。
 しかし私たちが、自らのワイルドネスを常に創造的に用いるとは限らない。むしろ、破壊の欲求を満たすために動員されることの方が多いのではないのか。岸本作品はそういった複雑な事柄と連関しつつ制作されたもので、とても興味深いのだ。
 2)
 最初に、ワイルドネスとはどういったものなのかを考えてみたい。
 まずは、ジム・キャリー主演の『マスク』という映画について。銀行員のイプキスは、真面目で気立てのいい若者なのだが、万事ここ一番という時に弱い。それ故に少しばかり鬱屈気味である。ある夜、河の流れに拾った古代の仮面を被ってみたところ、それは彼の抑圧されていたワイルドネスを蘇らせ、極端に増幅、暴走させ始める。イプキスはそんな仮面に戸惑いながらも、やがては自分のワイルドネスと折り合いをつけてゆく。トリックスターのような存在と出会うことによって、ワイルドネスを再発見し、生き生きとした人生を見つけ出すことができたのである。注目すべきは彼が、窮地に立たされた恋人を救うために、自己犠牲の精神を発揮するところだ。エロスとワイルドネスが結び付いた時、そんな離れ業ができるのである。

 ところでその仮面は一時、凶悪な犯罪者に奪われてしまう。だがその男に対しても仮面は、分け隔てなくそれなりの超能力を持たせてやるのだ。このことは、トリック・スターには善悪の区別はなく、エキサイティングな面にしか興味がないことを思い起こさせる。仮面は、ナルシシズムやエロスとしての自我を通じてワイルドネスを汲み上げる。つまり、ワイルドネスにしても、そもそもは善悪の区別なしに上がってきたものなのである。
 デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』は、ワイルドネスが暴発寸前の男たちが集まる秘密クラブの話だ。ルールに則った殴り合いで昇華させる辺りまではいいとしても、リーダーの指示に嬉々として従いながら実行される集団犯罪の数々は、幼稚な鬱憤晴らしでしかない。ブラッド・ピットが演じるクラブのリーダーは、危険なナルシシストで、あれこれと奇怪なアイディアを持ち出しては、メンバーらのワイルドネスを悪用する。しかし終盤になって、破壊活動を阻止しようとする別のワイルドネスが(リーダーの中に)顕在化し、ナルシシストとワイルドネスのコンビネーションを荒療治でもって解消させる。これは、エロスの介入と言えるのかもしれない。
 3)
 私が、岸本吉弘の絵画を初めて見たのは8年前のことだ。その時私は、まるで、闘いの痕跡がカンヴァスに堆積しているようだと思った。自然界のワイルドネスと作者のそれが共振し合う、そんな内的な光景を背景にして、何かが闘っているのである。高度機械化文明と張り合っている様には見えない。自然界との内的な交流に没頭する最中に、観念としての高度機械化文明が割り込んでくる余地はなさそうだ。強迫観念に悩まされているのであれば別だが、そういった絵画とも違う。また、作者は進んで自然界と交流を図っているのだから、そのやり取りの途上で反目が起こるとは考えにくい。むしろ作品からは一体感をも見て取ることができる。では、何が闘っているのか。素っとぼけるのはもうよそう。ワイルドネスを手繰り寄せ、利用しようとするナルシシズム的欲求を、高次に目覚めた自我が干渉しているのである。この時、自我は、エロスが指し示すベクトル上をのぼり始めている。それは静かだが、気迫を伴うものだ。まるで、自らの邪気を斬り捨ててゆく居合のように。作者は邪気をあぶり出し、画面に叩きつけているのである。

 またしてもだが、ここで2つの物語を引き合いに出してみたい。三島由紀夫の『金閣寺』と、シェイクスピアの『リチャード三世』である。『金閣寺』の語り手である学僧は、真・善・美を具現するものとして、金閣寺に強く憧れるのだが、最後には嫉妬の余り焼き払ってしまう。愛の領域に憧れ、そこを目差そうと呻吟するものの、挫折した上、自らを破壊の領域へと貶めてしまったのだ。『リチャード三世』は、世の平和と人生の楽しみを嫌悪し、人々を憎しみと戦争へと駆り立てる。そんな奸智に長けた、そして哀れむべき男の話だ。金閣寺も平和も、自分の醜さを際立たせる事物・観念であって、よってそれらは彼らの自尊心を傷つける。それらさえ消えてくれるのなら、自分が完全な存在でいられるような気がするのである。
 『リチャード三世』の冒頭、主人公の独白があるのだが、彼がすっかり邪悪な存在として凝り固まってしまっていることが窺える。既に極端なナルシシズム障害にあり、そこから物語が始まる。一方の『金閣寺』だが、最後にはとうとう火を放ってしまった学僧ではあるが、破壊の空しさを味わったこともあり、再度、エロスを目差そうとするかもしれない。そうなれば、彼のワイルドネスが反転を始めるだろう。自らのナルシシズムをあぶり出したり、断ち切ったりしながら飼い慣らすことが出来たなら、むしろコンプレックスを弾みにして、創造的な生き方ができるようになるかもしれない。だが、リチャード三世にはとても無理だろう。彼はどっぷりと闇に浸っており、しかもその闇を究めようとするばかりだ。日々、破壊に明け暮れ、創造的なことは何一つできなくなっているのである。
 なりふり構わず破壊へひた走るか、それとも創造的なエロスの領域を目差すのか、どちらにしてもワイルドネスが関わってゆく。誰もが各人各様のコンプレックスを持っており、生い立ちや境遇も違う。肝心なのは、ワイルドネスをどちらの領域へより仕向けることができるかなのだ。それは、魂の試練なのかもしれない。
「Untitled」 162×130 「正面に立つ」 194×130
       
 4)
 幼年期に見られるナルシシズムは、精神の健全な発達のためには不可欠なものである。発達過程に於いて、首尾よくナルシシズムと付き合うことができたなら、それは形骸化し、幼年期の名残として止まる。その代わりにエロスが育っているので、自尊心を失うことはない。それは愛し愛されたと願う、生への情動である。エロスは、隣人のみならず、不特定多数へ向けられる愛、つまりアガペーへの発展途上形ではないかと私は思う。そしてアガペーもまた、愛そのものへの発展途上にある。愛そのものとの同化は、そう易々とは起こるものではなさそうだ。しかし、そうまででなくてもいいのだ。地球上の大多数の人間がアガペーに目覚めるだけでも、私たちはようやく幼年期を脱して、精神的に高次な段階へと進化を遂げることができるのではないか。とても難しそうに思えて、実は簡単なことなのかもしれない。
 愛として存在するということは、どういうことなのか? いかにすれば愛として存在することができるのか? こうした問いは、古典から現代に至る美術や文学の主なテーマとなってきた。しかしこの国では、仏教美術は別として、エロスやアガペー、愛そのものといったテーマを窺わせる美術は少ない。現代美術ともなるとそれが極端になる。人々に見放されてきた大きな理由はそこにあると思う。人間存在の根本的課題ともいうべきこのテーマを蔑ろにして、幼稚なナルシシズムを発露し、満足を求めているだけでは面白くない。

5)
 岸本吉弘の新作を見ていると、ナルシシズムとの闘いに転機が訪れたかのような印象を受ける。情念の凝縮のように見える筆致は健在だ。しかし画面には、エロスとワイルドネスとの結びつきがより前面に現れており、ナルシシズムとの闘いの痕跡としての堆積は影を潜めつつある。ナルシシズムが消滅した訳ではないが、エロス的な生き方への価値が、作者の内面で高まったかのような感じがする。自然界との共振の中で、ワイルドネスを見出し、やがてこれがエロスへと逢着した時、愛であることにより接近できたのである。
 岸本の作品を前にして、自らの苦悩を意識に上らせる人もいるだろう。ややあって絵画との対話が始まるのだが、それがやがて、自らのナルシシズムをエロスへ、そしてアガペーへと超越させてゆく端緒となるかも知れない。挫折や苦悩の連続で、そうは簡単にはいかないものなのだろう。しかしエロスやアガペーへと向かおうとするからこそ、挫折があったり苦悩したりするのであって、その発展途上が面白いのだ。岸本吉弘の絵画に、そんな人間の、更に言えば藝術の面白さを見るのである。


    (写真の作品は、すべてキャンバスに油彩、蜜蝋)

■きしもと よしひろ
 1968 神戸市に生まれる
 1991 第5回ホルベインスカラシップ奨学生
 1994 武蔵野美術大学修士課程美術専攻絵画コース修了
 1998 文化庁芸術インターンシップ研修員
 2001 大和日英基金の助成によりロンドンにて滞在制作
 2003 第17回ホルベインスカラシップ奨学生

 ギャルリームカイ(東京)、ギャラリー白(大阪)など
個展、グループ展多数。

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