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new2007.8.28
 web展評 目次

〈大地ワークショップ〉

絵画の始まり
――中津川浩章のワークショップ

文●大川 祐 Yu Ohkawa 
美術家
■大地ワークショップ
2007年7月6日
身体障害者施設蓮田太陽の里
埼玉県蓮田市黒浜1045−1
電話048−764−3881


 ■蓮田太陽の里
  埼玉県の蓮田というところにある身体障害者施設「蓮田太陽の里」で行われた、美術家・中津川浩章主催の絵のワークショップへ参加した。ワークショップは午前と午後に分かれ、午前中は身体障害者、午後は大宮から参加の知的、精神障害者が対象だった。天気が良く(陽射しが暑かった)戸外に用意した90p×90pのベニヤ板に、ボランティアが用意する調色されたペンキで自由に描いてもらうという趣向であった。障害は重度であり、またほとんどが絵画未経験の人たちだ。
参加者たちが描き上げた作品

 準備が終わると、ラジカセを使って大音量でケツメイシの音楽を流して気分はノリノリ。太陽の陽射しと、汚れ防止のブルーシートが妙に夏を演出していた。さあ、いよいよスタートだ。
 身体障害者の人たちは、車椅子の障害重度が多かった(車椅子からでも描けるようベニヤ板は台に乗せられた)せいか中々絵筆を取ってくれなかったが、ボランテアが誘導すると最初は恐る恐るだったが次第に入り込んできた。手、もしくは手が使えない人は足で熱心に筆を動かし始めた。二時間ぐらい続いただろうか。炎天下での作業は頭がくらくらしてきた。声を掛けながら次は何色にしましょうか、とかベニヤ板の方向を変えながら絵が進むように手伝い、(体に無理のないように)完成へと向かって行った。飽きずに粘り強く描いていたせいか画面は次々に埋まって行ったが、体が自由に動かせずに同じ箇所を何回も違う色のペンキで塗ってしまうので色が濁ってしまったりして、そばで見ているボランティアがタイミング良く助けてあげねばならないことに気がついた。だが、筆の動きには普通の人にはないものが感じられ、結果としての画面に影響し、その操作されてない動きがとても新鮮なものに見えた。画面に何かイメージが見えずとも筆跡の自由さが絵を作っていた。
男性の一人は、あぐらをかいたまま絵筆をベニヤ板に叩きつけていた(かなり強く)いた。絵の具の付いた筆でベニヤ板を叩くのが面白いらしく、描き終わった後は筆がボロボロになっていた。普通はこんな風に筆を使えないだろう。彼はあぐらをかいていた足が、叩きつけた筆の跳ね返りで色とりどりの足になっていった。またある人は車椅子に乗ったまま、足で筆を掴み器用に画面を塗っていった。画面は少しずつ色面で埋められ、画面全部が塗れるようボランティアが少しずつ画面を移動させたり、回転させたりることで隅々まで塗ることができた。彼の場合も描く行為自体が画面全体を覆っているために、画面がとてもマッチョなものになった。身体障害者の場合、手や足を使い肉体的に画面を埋める描画行為そのものが絵となっていった。しかし、これは絵を描く経験が増えればまた違うのかもしれない。
(同上

 午後は知的、精神障害者が対象である。同じく大音量の音楽とともにスタートした。午前中もそうだったが障害者、施設の職員、ボランティアが一体となってこの絵を描くワークショップに参加しているため、一種のレイブ感覚が作業場に満ちていた。お祭り騒ぎである。絵の具を自分や他人の顔に塗ったり、施設の職員のシャツに手形を付けたりとグシャグシャである。午前中と違うところは人数も多かったせいか、一つの画面に数人が最初から積極的に参加したが、それも最初の内だけで30分ぐらいで潮が引くように引いてしまった。暑かったせいだろうか。みんな日陰のあるところへ引っ込んでしまった。それでも幾人かは最後まで画面に向かい完成させることができ、中には自分から完成したと言ってくる者もいた。知的、精神障害者の場合は、筆を自由に動かせるので多少画面にイメージらしきものが生まれていた。体も動かせるので自分のタイミングで描け、色も濁らない作品が生まれた。
その中の女性で、永遠と赤いペンキでひらがなの「ヘ」のような「つ」のような線をひたすらノリノリで(私の腕にも描いた!)描いている人がいたが、その線の感覚がキレていて驚いた。今回のワークショップの作品は複数の人で描かれることが多かったが、不思議とまとまった作品が生まれていた。これこそコラボレーションである。また、途中でボランティアの一人が障害者に影響され自分の作品を描き始めてしまった。思わず描きたくなってしまったのだろう。しかし、周りの障害のある人達の自由な筆の動きに比べると、筆を操作している感が強く、違いは一目瞭然だった。ボランティアの仲間は障害者の自由な線について感心し、彼らの絵を手伝う自分達の描く線の不自由さに恥ずかしい思いがすると話していた。

 ■絵が涌き出る
 午後の部も終わり、みんなが帰ってしまったあとボランティアと施設の職員でかたずけをしながら良い作品をピックアップしていった。こちらのほうも終わり頃には絵の見方が慣れてきて、すっかり障害者の作品に魅了されてしまっていた。
(同上)
できあがった作品を見ながら、どこからこれらの作品が生まれてきたのだろうかと考えてみた。彼らはまだ意識的に絵を描くことはほとんどできないと思われる。しかし、その反イメージ的な画面は我々を魅了する。絵はどこからやってくるのだろう。こちらが意識して絵を見ようとするからだろうか。それもあるだろうが、良い作品が持つ開かれた感覚は、健常者には到底真似できないものである。偶然描かれたものであれ、そこに存在する視覚に美術史には登場しない作品の感覚がある。今回のワークショップでは絵を描いた経験がほとんどない人たちの集まりだったが、それだけにイメージ以前の原初的な作品に出会う事ができた。貴重な体験だった。絵画が始まるところとでもいったらいいだろうか。彼らの大半は、画面を埋める事に意識が集中している。画面に中心はなく、天地もそれほど意識されていない。画家が普通にやるように、絵を離れて見ることもない。そのような中で絵が涌き出るといったらいいか。そんな感じなのである。

 ■絶対的な感覚
  ここでアウトサイダーアートを定義することにどれくらい意味があるのかわからないが、少し考えてみたい。狭義には精神に障害を持った人たちの幻想的な絵を指すが、もう少し広げて子供や専門的な美術教育を受けてない人たちの作る作品を指して言う言葉として捉えたい。
まず、ひとつに歴史性の欠如が上げられるだろう。美術史としてのバックグラウンドはなく、個人史としての表現がほとんどである。そしてそれらの表現に見られる直接的なイメージは、作品と表現主体(作家本人)の間に距離がないことである。これが絶対的な感覚を生み、アウトサイダーアートの最大の魅力となっている。絵を見ている人は、一瞬の内に自分自身に立ち返る事になる。これは、普通のアーティストからすれば越えられない壁である。
ブルーシートの上たくさんの作品ができあがった

これが普通の画家だと、作品と作家本人の間には幾重もの層があり、それが歴史であったり、現実との距離感覚だったりする。以前、世田谷美術館で〈パラレルビジョン〉というアウトサイダーの作品と、彼らに影響を受けたダリやクレーなどの作品がパラレルに展示されるという展覧会があった。比較が容易だったこともあったため、アウトサイダーアートと現代アート(インサイダーアート)の違いは判りやすく、クレーなど線が知的に判断されたものであるために表現と作画行為に間があるが、一方のアウトサイダーアートの場合は表現されているイリュージョンと作画行為の間に判断する時間が含まれないためより直接的である。
 私はここでアウトサイダーアートに、人間の実存の究極を見てしまう。そして絵と人間の根源的なつながりを、彼らの作品は教えてくれる。そして彼らの作品は、人間が生のまま存在することを可能にする。今回関わったワークショップでの体験で彼らの身体を横目で見ながら作品を同時に見る時、まさに現在という時間の中でベニヤ板に存在が写し取られていく様を見る時、私がいくらかのとまどいをもって彼らと接している感覚が一瞬にして消え、生きた人間をベニヤ板の方に見てしまう。少し変な言い方だがそれだけ人間が直接生きている事自体を知ることは困難なのである。またアートの目的もそうした困難ではあるが人間の実存に奉仕することだと思っている。 

■中津川浩章  略歴

1958年静岡県生まれ。
作家として個展やグループ展でブルーバイオレットの線描を主体とした大画面のドローイング・ペインティングと呼ばれるアクリル画を制作発表。
必要最低限の技法で人間にとっての「見ること」、「存在」とは何かを問い続けている。
アウトサイダーアートについてのレクチャー、ワークショップなど数々の活動にも参加している。震災後の神戸、トルコでライブペインティングやワークショップを実施した。
最近は活動を国内にも拡げ、大学、養護学校、などで、レクチャー、ワークショップをおこなう。
また、他のアーティストの展覧会の企画なども、精力的におこなっている。


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