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new2007.7.3
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〈中津川 浩章展〉

個人とマスメディア社会を横断するイメージ(中津川 浩章)


文●大川 祐 Yu Ohkawa 
美術家
■「痕跡」と「まなざし」
2007年1月8日(月)〜1月20日
マキイマサルファインアーツ
〒111−0053 台東区浅草橋1−7−7
電話03‐3865‐2211


 ■「個人のジャーナリズム」を表現
  我々は常日頃映像文化や、マスメディアのイメージのシャワーを浴び続けている。また、それらからもたらされる何かに囲われているような閉塞感をどこかで感じないだろうか。
 アートは20世紀以降この大量消費されるイメージの氾濫と共に改革を遂げてきた。古典的な芸術家のオリジナリティを追求した作品では、20世紀以降のリアリティを感じることはできなくなって来ている。例えばアンディ・ウォーホルのマリリン・モンローを扱った作品のようにマスイメージに犯される「オリジナルな個人」の崩壊を提示した作品は、我々が向き合っている映像文化生活の象徴だろう。
社会的に見ればアートは「個人のジャーナリズム」という面を持つ。そしてその「個人のジャーナリズム」を現在において表現しているのが美術作家の中津川浩章氏の作品ではないだろうか。
1958年静岡生まれ。美術作家として個展やグループ展でブルーバイオレットの線描を主体とした大画面のドローイング(素描)を制作発表。日本の美術界が社会に拠って立つ表現を軽視している中、中津川氏は我々の生きている社会感覚を独自に表現し展開している。
 日本の美術は現在まで(皮肉なことに!)社会を通じて見出されてくる現実的な表現よりも、芸術家の秘められた世界観や日本の伝統に裏付けられた工芸的な鑑賞性の高い作品を求めてきた。一種の芸術至上主義である。我々は“何でも鑑定団”ではないのである。これでは鑑賞には耐えられてもその作品の考え方が社会に還元され、我々を取り巻いている生きた社会現実へと肉薄することはまず無理だろうと思われる。我々は美術作家を通じて作品に描かれた美意識を感じること以外にもこの我々が生きている現実の映し絵としての作品を一方で強く要求するのである。

 ■我々に直接問いかけるイメージ
 中津川氏の画面に描かれたイメージは、個人的な夢や漠然とした記憶の断片やマスメディアを通じて見出された像が登場する。それらはあらかじめある主題に準じて何かを自己表現するといったプロセスで描かれたものではなく、無目的に何かで写し取ったかのような画面である。
展示風景 (図版1)
描かれたイメージは画面の中で答えを持たず、我々に直接問いかける。まるで普段テレビなどの映像を見ている時の感覚を、作品を通じて再認識しているような不思議な作品である。そして個人的な記憶を扱った作品は、そうした映像文化の影響による個人の閉塞感を表現していると思われる。
 話を作品に移そう。
図版1では女性の死体のようなものが画面を横断している。カタチが画面を横断するイメージは、中津川氏の作品に頻繁に見られる特徴だが見る者に絶対的な感覚を迫る。画面の上方には男性の(と思われる)イメージが、膝から下だけ描かれている。上方の人間は、横たわる死体を見ているのだろうか。死体の方は無残な姿を我々に曝け出しており、絵を見ている人間はどうすることもできずにただ呆然とするしかない。
展示風景 (図版2)
諦めて気持ちを上方の人間に寄せるがひどく曖昧な感情を持ってしまう。画面全体を覆う殴り書きの線や傷のような筆跡が、いやでも暴力を感じてしまう。そして人間の体も着ている服も地面も白い色で(実際は画布の生地の色)描かれているため、頭の中であれかこれかの判断ができずに視線が無防備になって我々はそこにある暴力を受け入れざるを得ない。この作品は、そうした暴力を目の前にした人間の無力さを提示しているのだろうか。
 
図版2では部屋の中の様であるが、人の住む暖かさはない。窓のようなものが見えるが、何か暗い室内から外の様子を伺っているような気分にさせられる。同じ室内の床のようなものに画面の外側から戦闘機(と思われる)が、向かってくるのが見える。床であるはずのところに空の情景があるため、見る人の足元を戦闘機がおそってくるような感覚になる。また、実際は大きな作品であるにもかかわらずそこにひろがりは感じられず、閉じられた感覚とパースの付いた手前に広がる空間から何か大きな暴力にただじっと声をひそめて耐えていなければならないようである。
展示風景 (図版3)

画面上部は執拗に塗りたくったり、逆にところどころ隙間を作りながら線を引いているため、我々を守るはずの壁や格子が立ちはだかったり、逆に今にも崩れそうだったりして不安を喚起させるイメージになっている。これは壁や格子の持つ二重の意味を思い起こさせるだろう。この作品は、そうした迫ってくる恐怖を待つ時間をイメージさせる。戦争や政治に巻き込まれる社会的弱者に思いを馳せてしまう。
 
図版3は小さいが、力強い作品である。飛行機が描かれているが、翼が人間の手のように感じられ、それが画面の端に縛り付けられているようである。子供のころ描いた飛行機のようでもあるが、濃く塗られた色のせいで夢を乗せて飛ぶはずが、それを否定されている。これは中津川氏の文明に対する懐疑を表しているのであろうか。グラフィカルに処理された画面が、逆に人の固定観念に訴えかけてくる。
 ■見る人が積極的に関わる作品
  これらの作品群は冒頭に述べた作品の小宇宙を鑑賞するタイプの作品ではなく、見る人が積極的に関わる作品であり、そこから中津川氏の表現も発生しているように思われる。私は展示された空間の中で、中津川氏の記憶の断片やメディアを通して見出されたイメージを再イメージ化した作品群に囲まれながら、これらが発する感覚はマスメディア社会という実在の持つ皮膜的感覚なるものなのではないかと思いをめぐらせた。
皮膜的というと何か判りずらいが、部屋でテレビを見ている時、部屋という現実空間の中でテレビの映像は表面だけで裏側がないと想像してもらいたい。それは遠く離れた戦争などのイメージが、薄い皮膜のようなものとして部屋の中に存在する奇妙さといったらいいだろうか。
マスメディアのイメージは我々に必要な情報を提供すると同時に表層的幻影も作り出す。中津川氏のイメージの源泉になっている表層的な感覚は、このマスイメージが持つ表層性に依拠していると思われ、それが我々にとっての現代的なリアルな恐怖感だったり不安感だったりする。普段我々は、人と人との具体的な繋がりの中で生きているが、一歩そこから離れればイメージの暴力に取り囲まれているのである。
 このマスメディア社会が持つ多数性のもたらす暴力が、中津川氏の画面から滲み出てきている。また、画面の中に登場する人間は、ある具体的な誰かに絞って描かれたものではなく普遍的な人間のイメージである。また、即物的に表現されているために肉体は誰だか分からない一個の肉の塊になってしまっている。これも多数性から来る個人の喪失である。
 話を作品自体にもどそう。中津川氏の作品は、見る人が作品の空間を覗き込むような仕掛けになっている。いわばその場に立ち会っているような感覚。これは現象的に見れば、作品の虚構空間とその場で見る人の肉体が混在することになる。そして虚構空間は、事実的な描法を保ちながら遠近法が歪められているため、平衡感覚が狂い意識がさまよい画面に張りついたようになる。これは通常の情報処理感覚を引き剥がされ、たったいま見ている感覚に立ち会うことになる。例えば
図版4では空間が一点透視的になっているため、より顕著に作品空間を見る人が展示会場に立っている場所から眺める格好になっている。
 この実空間と虚構空間を混ぜた状況は、実は我々の普段隠されている心理と似た格好になっている。我々は、常になんらかの感受性を持って社会と向き合っている。その向き合った時の社会の断片は、集団や個人の記憶の中で蓄積されイメージ化される。普段の生活の中では本人の心がいわばスクリーンの役目をして心に像を作りそれが記憶となり、また対メディアではメディアというスクリーンを通して我々は映像を見て記憶する。我々は、こうした個人からマスメディア社会へとまたがるイメージの横断の際に発生する感覚を、中津川氏の記憶のスクリーンという現象を通じて不安や暴力として共振するのである。
 
展示風景   (図版4)  展示風景 
■中津川浩章  略歴

1958年静岡県生まれ。
作家として個展やグループ展でブルーバイオレットの線描を主体とした大画面のドローイング・ペインティングと呼ばれるアクリル画を制作発表。
必要最低限の技法で人間にとっての「見ること」、「存在」とは何かを問い続けている。
アウトサイダーアートについてのレクチャー、ワークショップなど数々の活動にも参加している。震災後の神戸、トルコでライブペインティングやワークショップを実施した。
最近は活動を国内にも拡げ、大学、養護学校、などで、レクチャー、ワークショップをおこなう。
また、他のアーティストの展覧会の企画なども、精力的におこなっている。


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