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new2007.5.22
 web展評 目次

児玉靖枝展

事物の向こう側と遊ぶ


文●石橋宗明
ISHIBASHI Muneharu
(美術展覧会企画者)
■児玉靖枝展
2006年12月18日〜27日
トアロード画廊
神戸市中央区元町通6丁目5−8 松尾ビル
078−351−2269


 1)
 児玉靖枝の個展は、神戸のトアロード画廊で見ることが多い。そこでの初個展は1986年だったが、以来、阪神大震災による混乱期を除き毎年行われている。トアロード画廊は震災後、元町にある大正時代に建てられたビルに移った。それは鉄の扉の向こう、建物の内奥に隠されているかのようにある。2階から4階部分を占有した幅の広い階段と、2つの踊り場、吹き抜けが展示空間として使われている。各階の窓からは、自然光が程よく差し込み、油彩画本来の色彩でもって見ることができる。しかし、頼りなげに灯るスポットライトが数個、手摺に取り付けられているだけなので、夕暮れともなると展示場は薄暗さを増し、階段を踏み外しそうになるのだ。師走の真っ只中は、児玉靖枝の展覧会と決まっているらしく、その年もそうだった。午後5時に近づく頃には、絵画がぼんやりと浮き上がり始め、じっと眼を凝らさざるを得ない。
2006 気配―花楓 65.2x45.

 老練で、時として気難しい画廊主は大抵、ステンドグラスが施された最上階の部屋(夥しい数のタブローが乱雑に積み上げられている)にこもっている。で、そこを訪れる少数のコレクターは別として、来廊者が展示作品のタイトルを知る機会はそう多くはない。なぜならこの画廊は、キャプションの類を一切添えないのを慣わしにしているからである。私もまた、作家に直接尋ねてみたり、作品資料を捲ったりしてそれを知るのだった。だがいつしか、そんな画廊の雰囲気にも慣れてしまい、無頓着になっていた。なるほど、タイトルに惑わされてはならない!
 でもここでは、少々タイトルにこだわってみたい。最近になって私は、児玉作品のタイトルに、ambientという文字が頻繁に使われていることに気付いた。ambient light―flower、ambient light―goldfishとかambient light―sakura、私の知る限りではこういったものだ。しかし以前から私は、これらのモダンで可憐な作品に対して「アンビエントだなぁ」という感想を抱くようになっていた。それは、タイトルとして使われだした時期(2000年以降)と符合すると思う。作品から受ける印象が連想を引き起こしたのだろう。やがてその連想により両者、つまり以下に述べるアンビエント・ミュージックと同様に、児玉靖枝もまた、超感覚的次元に臨んでいるのではないか、そう考えるようになったのである。
     
2006 air-moegi 162x162 2006 気配―花楓2 45.5x45.5
  
 2)
 今でも尚、プレイヤーに載せる機会の多いレコードに、ブライアン・イーノのアンビエント・シリーズがある。これは70年代の終わり頃からリリースされたもので、Music for Airports(78)やOn Land(82)、ハロルド・バッドとのThe Plateau of Mirror(80)などで知られている。
 レーベルから最初にリリースされたのはMusic for Airportsだが、イーノがそのコンセプトを思いついたのは、晴れたケルン空港のロビーで、搭乗が始まるのを待っていた時だという。
「建物(たしか、クラフトワーク結成メンバーの父親が設計したもののはず)の空間はとても魅力的だった。こんな建物だったらどんな音楽が合うだろうか、と考えだした。『まず中断可能でなくてはならない(構内アナウンスがあるから)。人々の会話の周波数からはずれている必要があるし、会話パターンとはちがう速度でないと(コミュニケーションが混乱しないように)。そして空港の生み出すノイズと共存できないと。そしてわたしにとっていちばん重要なことだが、それは自分の居場所とその目的――飛行、浮遊、そして密かな死とのたわむれ――と何か関係がなくてはならない』そして思った。『死に備えられるような音楽をつくりたい――自分がちょっと不安なのを明るさと陽気さで隠そうとするような音楽ではなく、自分にこう言えるようになるための音楽:〈うん、ぼくが死んでもそんな大したことじゃないんだ〉』」
(※1)
2006.toaroad inst04

 死とのたわむれについて書かれた箇所を読むと、もう随分と昔のことなのだが、大雪に恵まれた高原へスキーに出掛けた時のことを思い出す。リフトで頂上へと運ばれながらその友人は、私の貸したカセットテープMusic for Airportsをウォークマンで聞いたのだった。リフトを降りて、斜面で顔を合わせると彼は「なんやこのテープ、どこに連れて行かれるんかと思った」と言う。連れて行かれる先というのは、黄泉の国とか彼岸、天国などを意味していた。思えば彼は、Music for Airportsの下地にあるコンセプトを直観していたのである。しかし当時の私はアンビエント・ミュージック(以下アンビエント)を、形而上学的な聞き方をする気にはなれず、物質的・感覚的な次元に押し込めようとしていた。その為、友人の感想を逸脱めいているようだと思い、テープを聞いた状況が演出過剰気味で、不適当だったのだと心配までしたくらいである。しかしこれは、自分を偽る態度だった。物質的・感覚的な態度に留まろうとしつつも、自然散策にはアンビエントのテープを持参し、何らかの気配を楽しんでいたのである。ただ、イーノのように死とのたわむれと表現してしまうと、そこに退廃的なイメージが色濃く出てしまい、実際のニュアンスと齟齬が生じてしまう。そこで、感覚的・物質的世界の向こう側との戯れとか、超感覚的次元との交流と表現しておきたい。そうしたところで、イーノが言わんとする対象との差異は生じないと思う。
 感覚的・物質的世界の向こう側との交流、あるいは超感覚的次元の認識は、何らかの対象について思考する中で起こり得る。自我は自らの束縛を解き、自由な精神と出会うのである。

     
2006 気配―楓 60.6x60.6. 2006 気配―楓・桜 oil on canvas 80.3x80.3
  
 3)
 児玉靖枝は大学紀要に、次のように書いている。
 「絵画として成り立たせるためのモチーフ『桜』であったものが、一点一点描き進めるうちに桜の花の輪郭が消え、より存在の本質に近づいていくという感覚を得ることができました。作品のタイトル〈ambient light〉からも読み取られるように、知覚認識論的な〈見ること〉から、存在に対する〈まなざし〉へと、私自身の意識が変わっていったのだとおもいます」
(※2)
 これをどう読むかは意見の分かれるところだろう。私は超感覚的認識について作者が述べたもののように思うのである。児玉靖枝の絵画(特に近年のもの)は、思考を進める内に、自我がその束縛を解き始めるそんな感覚を描いているように見える。立ち現れる感覚の変化、そして認知へと向かうこの時間的奥行きが窺える。なぜそんなことが言えるのかというと、過去に私が得ることのできた感覚を呼び覚まし、呼応するからである。描かれた気配は、思考が超感覚的認識へと向かい始める、その時の呼吸と似ている。私はまだ入口を覗き込んでいるだけに過ぎないが、それでも作品は、正触媒として私に働き掛けてくるのである。
 画面に描かれた通りの視覚体験が、そのまま私にもあったということではない。視覚的な変化は起こり得る。しかしそれらの絵画は、作者の魂の体験を、美意識に基づき、絵画技術を用いて刻んだ結果である。ベルグソンめいた言い方になるが、カンヴァスと絵具、絵筆といった道具を用いて物質世界に刻まれたものなのである。超感覚的な現実は、作者の美意識を通じてしか物質世界ででは表現され得ない。そこには、確かにこんな感じだと肯けるエッセンスが立ち上がっている。そしてそれらは近似値を示しながら、アンビエント(Music for Airports)へと接近する。
4)
 アルベルト・ジャコメッティが音楽の好みについて語る箇所は、アンビエントとの関連を見出すことができ興味深い。これは矢内原伊作の文章である。
 「仕事がうまく進まなくて神経がたかぶっている時に〈椿姫〉や〈冬の旅〉などが聞こえてくると『アネット! なぜヘンデルをかけないのだ』とどなったりした。ジャコメッティは他のどの音楽家のものよりも特にヘンデルのものが好きなのだ。ヘンデルの音楽は、いささかのわざとらしさも誇張もなく、全く自然で、最も『開かれた』音楽だ、と彼は言うのである。ヘンデルにくらべれば、ベートーヴェン以後のロマン派音楽はあまりにも技巧的主観的であり、『芸術』的であり過ぎる、というのが彼の意見だった。最もすぐれた芸術は『芸術』を感じさせない芸術にある」
(※3)
 更に記述が進むとジャコメッティは、ヘンデルよりも一層、グレゴリアン聖歌を好んで聞くことが分かってくる。
「ソレム僧院の修道士たちが歌うお経のように単調な古い歌に耳を傾けたあとで、彼はこんなふうに言う、『どこで始まってどこで終わるか分からない、いわば無限に続く旋律、これこそ真の音楽だ、まるで呼吸のように自然だ。』そらからまた、『ここには近代音楽にはない何かしら正しいもの、本当のものがある。それはちょうど近代のどんな絵よりもロマネスクの壁画やビザンティンのモザイクの方が一層正しいのと同じだ。』」
(※4)
 幾つかのヘンデルの曲もそうなのだが、ことにグレゴリアン聖歌は、浮遊感覚を伴う静かで簡素な旋律がその特徴である。またグレゴリアン聖歌は、天台宗や真言宗の声明(しょうみょう)との類似を語られることもあるのだが、恐らくこれらは、宗教的な超越感覚へと私たちを導く、そんな音楽に共通する特徴を持っているからだろう。それらは思考のリズムに近い。ジャコメッティは「まるで呼吸のように自然だ」と表現していたが、思考のリズムとは、その最中の落ち着いた呼吸のことである。アンビエントの持つ呼吸もまた、超感覚的な認識へと向かう際の呼吸である。これもまた、同じ系譜にあたる音楽と見なしてもよいのではないかと思う。
 
     
2006.toaroad inst08.
  
 5)
 昨年の晩夏、私は、ジャコメッティが超感覚的な絵画を残していることに気付いた(《アルベルト・ジャコメッティ展 矢内原伊作とともに》」を美術館で見たのだ)。矢内原伊作をモデルにしたものは、とりわけそうである。そして私の中で、グレゴリアン聖歌とジャコメッティの絵画とが、親和性をもって結び付いていった。3ヵ月が経ち、神戸の画廊に足を運んだ際、そんな感慨を改めて思い出していた。児玉作品とアンビエントの組み合わせを、今度は明確に見出していたのだった。
 児玉靖枝がアンビエントに傾倒しているとか、作品にアンビエントが色濃く反映されているとか、そういうことを言うのではない。そもそも、彼女がアンビエントを聞いているのかどうかさえ私は知らない。私にとってのリアリティは、児玉作品とアンビエントの親和性にあり、それは、ジャコメッティとグレゴリアン聖歌に見られるものと同質なのである。
 ところでこの2つの組み合わせだが、一旦は解体され、各々が結び付いた形となって再び現れるのだった。それは、4つの頂点に其々が位置している三角錐である。つまり、児玉作品と融和を見せるのはアンビエントだけではなくなる。ジャコメッティの作品とも、グレゴリアン聖歌とも同次元で語り得るのである。
 超感覚的認識という共通項で括られたこの三角錐は、自然・宇宙的摂理の洞察へと向かうベクトルを持っている。自然・宇宙的摂理とは、太古から存在し続ける宇宙的なエネルギーのようなものを想定している。それはすべての動植物の進化を司るのだが、私たち人間の精神にも働き掛け、進化を促している。例えば、タオイズムという生き方は、その精神進化の方向をいち早く体現したものである。
 破壊的なこの機械文明を招来したものは、人間だけでやってゆけると思い上がる、その傲慢さである。それは、自然・宇宙の摂理からの遊離をもたらし、私たち人間は異物と化してしまった。そんな中で、人間的な価値観によって構築された文明へと舵を切ってゆくには、私たちもまた自然・宇宙的摂理と共に生きるべき存在であることを実感することが大切なのではないか。そのためには、主体(人間)と客体(自然)といった対立的な概念から解き放たれ、一体感を得ることが肝要である。その時、自分の内にある自由な精神と出会うことだろう。偏狭な、あるいは硬直化した宗教教義や道徳、国家・民族的イデオロギーなどにはとらわれない、高次の精神である。私たちは、藝術を介してそれを試みることも可能なのではないか。むしろ、藝術の本来の役割とはそういったところにあるように思う。
 古いロマン派的な態度は、それなりの危険を伴う。しかし現実世界に於いて、良く生きようと欲するのであれば、彼岸との戯れが、いつしか自滅的な欲求にすり替わることなどないはずである。また、半ば眠っているような自我とか、先にも述べたような傲慢さを帯びた自我もまた、破壊への道を開いてしまう。差別や迫害、戦争や自然破壊などは、そんな未熟な自我が引き起こしてきたものだとも言える。過去の愚行を繰り返さない為には、自我を確立しつつ、自然・宇宙的摂理と共にそれを鍛えなくてはならない。それは創造的な生命力に根ざした、タオ的な生き方に繋がってゆくのではないかと思う。

■引用文献
1)ブライアン・イーノ著『A YEAR』山形浩生訳、PARCO、1998、pp.488−489.
2)児玉靖枝『ambient light―sakura』(成安造形大学 学術活動報告 平成15年度 p.172).
3)矢内原伊作著『ジャコメッティ』宇佐見英治・武田昭彦編、みすず書房、1996、p.134.
4)同、p.135.
児玉靖枝  (KODAMA Yasue)  略歴
1961 神戸市に生まれる
1984 京都市立芸術大学美術学部油画専攻卒業
1986 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了
現在 成安造形大学造形美術科助教授

〈主な個展〉
アートスペース虹(京都) 1986、89、2005  トアロード画廊(神戸) 1986〜1994、1998〜2006 ギャラリーμ(大津) 1988〜89 石屋町ギャラリー(京都) 1990、92〜93、96 ギャラリー21+葉(東京) 1992、94 アートサイト(福井) 1994 スカイドア(東京) 1995 トアロード画廊六本木(東京) 1996 東京画廊(東京) 1997 ギャラリーKURANUKI(大阪) 2000 セゾンアートプログラム・ギャラリー(東京) 2002 CASO(大阪) 2003 O gallery eyes(大阪) 2005
 〈主なグループ展〉 
兵庫の美術家展(兵庫県立近代美術館、神戸) 1990 VOCA展(上野の森美術館、東京) 1994、96〜98 光と影―うつろいの詩学(広島市立現代美術館) 1994 視ることのアレゴリー1995:絵画・彫刻の現在、第三期 風景:位相の変容(セゾン美術館、東京) 絵画の方向'96(大阪府立現代美術センター) 現代作家11人の視点(滋賀県立近代美術館ギャラリー、大津) 1998 「現代日本絵画の展望」展(東京ステーションギャラリー) 1999 "The very last"(Gabriele Rivet、ケルン、ドイツ) 2001 椿会展(資生堂ギャラリー、東京) 2001〜05 未来予想図―私の人生☆劇場(兵庫県立美術館、神戸) 2002 第2回韓国国際アートフェア(韓国総合展示場、ソウル) 2003 絵をかく人々の集い展(ギャラリーかれん、横浜) 2003〜06 四批評の交差(多摩美術大学美術館、神奈川) 2004 時の器X―未来の幼子のために(アートスペース虹、京都) 2004 韓国国際アートフェア 特別展「現代日本の絵画」(韓国総合展示場、ソウル) 2004

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