web展評
new2006.6.22
 web展評 目次

ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ

 武器を取るということ


文●石橋宗明
ISHIBASHI Muneharu
(美術展覧会企画者)
■ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ
2006年2月21日〜4月2日
京都国立近代美術館
京都市左京区岡崎円勝寺町
 075−761−4111 



1)
  ナチス・ドイツによる「頽廃藝術展」の第7室には、エルンスト・バルラハの彫刻も運び込まれていた。当時、「頽廃藝術家」に分類された人たちには、「ヒトラーの言いかたを借りるなら、いまや可能性はふたつしかなかった」とイアン・ダンロップは述べている。「美術家たるもの国を去るか、それは忠誠心の欠如とドイツ性の欠如を告白するに等しかったが、さもなくば後方にとどまることができたが、そうすると作品を展示および売却する機会をまったく否定され、場合によっては制作することすらいっさい禁じられてしまうのだった」※1
 「頽廃藝術展」が開催された1937年には既に、ナチスは公的な場所から、全てのバルラハ作品を排除している。そして翌年の10月、バルラハは病で逝った。彼と親しかったケーテ・コルヴィッツは、最期の姿を木炭素描に描いている(《臨終の床のエルンスト・バルラハ》)。ベッドの上のそれは、いかにも屍であって、今まさに、魂が肉体の重みを置き去ったかのようである。
 バルラハは、コルヴィッツやオットー・ディックス、オスカー・シュレンマー、エミール・ノルデといった、ドイツ国内に留まった藝術家たちの1人だった。彼らが体験した、いつ終わるとも知れぬ不安や恐れの重圧は、想像するに余りある。だが、ドイツ国内に留まることができたのは、それが可能な状況も手伝ってのことだった。とりわけバルラハは、知名度の高い藝術家であったし、ユダヤ人でもなかった(ユダヤ系だと言って貶めようとした人たちがいたことはいた)。ナチスが制作の禁止を通告してきたことはなく、また、ナチス党員でありながら、裏ではバルラハへの経済的支援を行っていた画商などもいた※2。しかし、危急の状況ではなかったとはいえ、命懸けであったことに違いはない。不条理に対しては各々が、其々の立ち位置で抵抗を試みようとするものだ。


2)
 バルラハの創造精神は、北ドイツの風土の中で育まれた。分け隔てることのできぬその切実さが、国内残留という抵抗へと向かわせたのだろうか。1937年10月23日付の書簡に、バルラハはこう書いている。「あなたは自由だと人々は言うが、しかし国外で異邦人たることは自己自身にたいして異邦人となることだろうと考えるとおそろしいのだ。家のない状態のもとでは人はただ破滅していくだろう」※3。文面からは、亡命によるアイデンティティ崩壊の恐れが読み取れる。風土と霊的に結び付きながら創造の糧を得る、そんな藝術家にとって、彼地を離れなくてはならないのは、気が滅入ることに違いない。自分が自分でなくなる過程を体験することになるかも知れないのである。しかし、国内に残った理由が、ドイツ(とりわけ北ドイツ地方)を離れると制作に差し障るから、というものであるとは私には考えにくい。無い事はないが、それを筆頭に持ってくるとなると、バルラハの作品が備え持つ奥深さと乖離してしまいそうなのである。生活と制作の環境が一変してしまうことへの不安は勿論、杞憂などではない。だがそれは、時が経つにつれて折り合うことのできる事柄である。子供の頃から培ってきた創造精神は、任意の諸外国に赴いても尚、潰えることなどない。美と結び付いたそれらのエッセンスは、むしろ彼地で研磨されるものではないのか。ロシアを旅して、農民や物貰いの姿に感銘を受け、彼らを題材にした多くの彫刻を残しているバルラハに、そのことが分からぬはずはない。
 バルラハをドイツに留まらせた、最も考えられそうな理由は意地である。不条理には簡単に居場所を明け渡すまいとする、意地である。繰り返すが、危急の事態が迫っていたのなら、さすがのバルラハも国外へ逃れる方法を探っていたことだろう。しかし彼には、意地を通す余地が残されていた。
      

エルンスト・バルラハ《復讐者》
1914年、エルンスト・バルラハ・ハウス(ハンブルク)蔵
《ベルゼルケル(戦士)》
1910年、エルンスト・バルラハ・ハウス(ハンブルク)蔵
  

3)
 この度の展覧会に於いて、私は初めて《ベルゼルケル(戦士)》や《復讐者》などの像を見ることができた。すると、従来抱いていた印象が変化していった。私はバルラハの彫刻に対して、か弱いという印象を抱いていたのである。《ベルゼルケル(戦士)》や《復讐者》などの作品は、北欧神話に題材を得ているという。それらは戦っている最中か、戦いに出向こうとしている人物像だが、憤怒や好戦的といった趣はない。むしろ、悲しみや苦悩に苛まれつつ、殺傷へと向かう人物像であるように見える。これは従来の印象を裏切るものではないが、その印象の内実を探るよい機会となった。
 バルラハは第一次大戦勃発の直後まで、開戦を支持していた様子がある(※4)ということを知り、意外に思った。《復讐者》が制作されたのが、サラエボ事件の年であることには、それなりの意味があったのである。バルラハと親交の深かったケーテ・コルヴィッツもそうなのだが、第一次世界大戦がいかに悲惨なものとなり得るかを、予想できなかったようだ。それは史上初めて、大量破壊兵器が使われる戦争となったのだが、当時の人々には、その悲惨さを推察し得る経験などかつてなかった。まだ騎士道精神が息づいていたこの時代、戦争を世直し冒険旅行ほどにしか考えていなかった人も、珍しくはなかったに違いない。だが、機械文明がまだ黎明期にあったとはいえ、戦場に持ち込まれた兵器とその破壊力は、人々の抱いていた戦争感を変えてしまうのに十分なものだった。バルラハもまた、その悲惨さにすっかり熱が冷め、反戦へと急転回していった一人だったのではないか。
 北欧神話には勇猛果敢な物語が多く、英雄礼讃が顕著である。こういった物語は得てして、騎士道が投影されたり、あるいは見出されたりするものである。バルラハもまた、騎士道精神に生きようとしていた、ここではそう仮定してみたい。更に、もう1つの手掛かりである『老子』を絡めるならば、《復讐者》の制作課程に於いて既に、すべての戦争と軍隊を否定するに至る、そんな思索の展開があったのではないかと考えられ、その根拠を述べてみるつもりである。
 確かにその情動は、《復讐者》の制作に向かわせる原動力となった。しかし、対立軸となる思想の醸造も促したのである。情動の情熱が戦へと絡め取られようとする中、いよいよ『老子』の思想が立ち現れ、介入し始めたのではないか。《復讐者》は「どうしても仕方のない時」に武器を取っている人物像(恐らくは作者自らの姿)である。それは無抵抗主義を実践してみせたガンジーを別にするなら、究極的とも思える反戦思想を目指したものである。私がこんなことを言い出すのも、バルラハが『老子』を愛読していたということを知ったからである※5。バルラハの彫刻は、『老子』の中の幾つかの章を彷彿とさせる。まず、第31章「人を殺して楽しむ者よ」を書き出してみる。

恐ろしいことにこのごろは
こんな常識さえ忘れはじめてるんだが、
武器というのは悪い道具 ― 凶器なんだよ。
本当は
どんな人だって嫌うものなのだ。
だからタオの命(いのち)につながる人は
この道具を使おうとしない。
むろん、前に言ったように
どうしても仕方ない時には用いるさ。
しかしその時でも
最小限のところにとどめるんだ。そして
勝ったって得意にはならない。
得意になるような者は、
人を殺して楽しむようになる。
人を殺して楽しむ者は、かならず
その野望の極みまで行く、
そして国を破滅に導くんだ。
だからタオにつながる人は
戦いに勝った時の祝いを
葬儀のようにするんだ。
多くの人を殺したことを
悲しんで泣くのだ。
まことに
勝利は葬儀の礼ですべきものなのだよ。


また、第30章「自分を守る」はこんな風である。抜粋してみる。

  戦うことなんて
  ほんとに自分を守る時だけでいい。
  暴力に反抗して命(いのち)を守る時だけでいい。
  だからタオの人は
  自分を守る力を誇らない。
  なにかに勝っても奢(おご)らない。
  争うのは
  止むをえずする時だけのことだ。そして
  目的をとげたって得意にはならない。

悪の攻撃から身を守ること、これは必要である。破壊を甘んじて受け入れることはない。抵抗は生命力の特権である。だが、戦争となると様子が違ってくる。それらは生命力とその情熱の誤用でしかない。
 戦争を望む人々は、唐突には攻撃・侵略を始めはしない。先ず、私たちの良心や正義を求める心情に訴えかけ、その上で、もう選択肢が残されていないかのような錯覚を起こさせようとする。自分で考えて決めたつもりでいても、実のところ、いつの間にか乗せられてしまっているのである。多くの人は、戦争は反対だと言うはずである。だがうっかりしていると、案外簡単に覆されてしまっているかもしれない。例えば、日本人には鯨を食料にするしか生き残る道はない、と思わせるよりも、戦争は問題を解決させる唯一の手段である、と信じ込ませる方が容易である。食物については日常の経験と感覚で判断ができ、鯨以外にも食物はふんだんに手に入り、食生活に支障はないと直ちに分かろうというものだ。しかし戦争は、私たちにとって抽象的な事柄に止まり易く、他の選択肢が見え難い。従って、プロパガンダが鼓舞する道筋へと、うっかり飛びついてしまいかねない。そこにはナショナリズムの昂揚が仕組まれ、理性的な判断能力を撹乱させようとする。こんな時、二歩も三歩も距離を置いた、冷めた態度が必要となる。そしてこれが対峙的世論を形成する。しかしそれが上手く働かないのであれば、早々と次の段階へ持ってゆかれてしまうだろう。世の中の雰囲気が、何となく彼らの望む方向に傾き始めると、間髪を入れず「民意に従って」とか「みんながそう思っている」「国民の悲願である」などと、殊勝顔でのたまう。そこには「非国民」という文字が、朧げに浮かび上がっている。「非国民」という言葉に敏感な人間が多ければ多いほど、物が言い難い国へと転落する。
 彼らが、なぜそれほどまでに戦争に執着するのかというと、兵器で稼がなくてはならないシステムが存在するからである。そしてそのシステムから、多大の利益を得ている人々がいるのである。彼らには常に、悪党の存在を必要とし、適当な不届き者を見つけては(場合によっては裏取引をしながら)「史上最大の」とか「史上最後の」大悪人に仕立て上げようとする。「悪人国家」の軍事力は、仕掛ける国のそれと比べ劣っている。商売が目的なのだから、勝てる戦争を仕掛けなくてはならないからだ。あるいは、適当な国を舞台にして、市民を巻き添えにしながら、散々武器を消費するのである。
 どうしても仕方がない時、私は武器を手にするだろう。だが国や企業が主導する戦争・紛争に対しては、その一切を拒否する。実にまったく馬鹿々々しいのである。それは所詮、彼らの為の戦争だ。正義や人道上の理由で以って飾り立てようとするものの、必ずといってよいほど欲得が絡んでいる。戦争は欲得を満たすための手段である。欲得を満たせないのであれば、戦争など起こさない。つまり、どうしても仕方がない時、などではないのである。

4)
 タオと騎士道精神の話に戻さなくてはならない。
 『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』という映画があって、アル・パチーノが退役軍人に扮し、色々とこだわりを見せる男を演じている。彼にとっての銃はGunであって、Weaponではない。退役後も45口径の手入れを怠らないパチーノだったが、勉強を見てやっているある少年が、それをWeaponと言ったところ、すかさずこれはGunと呼ぶべきものだと正すのである。前者は兵器一般を示すことが多く、Gunは銃や拳銃に限定される。大げさな武器など要らない、いざとなれば拳銃一丁で戦ってみせる、という自信と気概の表れなのかもしれない。だがここでは、英雄嗜好というよりも、精神主義的なこだわりの方が強いように思う。その退役軍人は、自分の銃は、大量破壊・殺傷兵器とは区別されるべきものと考えている。勿論その類の銃は、数多の戦場で多くの人間を殺傷するのに使われてきている。殺傷力の強い拳銃ではあるが、無駄な殺生をためらう精神の象徴とすることもできる。最近の銃と違って、1回の装填により多数の銃弾を撃てるようには出来ていない。やむを得ず撃つ場合でも、相手に何発も銃弾を放つのではなく、1発か2発で動きを封じるのがその使い方となるはずだ。相手の命が助かることも多いだろう。いかに殺すかではなく、いかに生かすのかといった戦い方・生き方に重きを置く軍人が、そんな騎士道的な誇りを忍ばせることのできる、剣のような銃でもある。
 しかし、軍人としての誇りにこだわっている内は、軍隊の存在を前提とする枠から逃れることができない。辛うじて踏みとどまっていられる、脆い美学なのだ。軍隊という組織に取り込まれ、結局は、無駄な殺生を繰り返さざるを得ない状況に追い込まれてしまいかねない。あるいはその美学は、軍隊の美化に利用されるだろう。誇り高き高潔な軍人像を称えてみせることで、まるで軍隊そのものが敬意を払われるべき存在であるかのように装うのである。騎士道精神が支配する誇り高き軍隊など存在し得ない。軍隊と騎士道精神とは相矛盾する。なぜなら、軍隊は殺傷と破壊を目的としているからである。戦争が起きていない時なら、両者は表面上では上手く折り合ってゆけるだろう。いざ戦争となれば、戦争を遂行する人々にとって「いかに生かすか」などと生温いことを言っている騎士道精神など邪魔になるだけである。「おまえたちは兵士だ、殺せ! 何も考えるな!」と教官は喚き散らすのである。
 アレン・ネルソンという元海兵隊員について述べたい。彼はベトナムで闘って生き延びたものの、帰国後、重い心的外傷後ストレス障害に悩まされた。ホームレス生活など辛い経験もあったが、友人・知人らの支援もあってようやく克服できたのだった。現在彼は、戦場の真実を語るべく講演活動を続けている。『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(
※6)という本から、まず次の箇所を書き出してみる。
 
「わたしたちが学ぶものはすべて人を殺すための方法であり、その目的は人を殺すことをなんとも思わない心をつくりあげることです。ですから、整列した新兵を前にして、教官はこんなふうなコール・アンド・レスポンス(よびかけと答え)を教えこみます。
教官が声をはりあげます。
『おまえたちは何者だ?』
 わたしたちが応じます。
『海兵隊員です!』
 そして教官。
『声が小さい!おまえたちは何者だ?』
 そしてわたしたち。
『海兵隊員です!』
 教官。
『おまえたちのしたいことはなんだ?』
 わたしたち。
『殺す!』
『聞こえんぞ! おまえたちのしたいことはなんだ?』
『殺す!』
『聞こえん!』
『殺す!』
 そうやって、わたしたちは目をぎらつかせて、『殺す!殺す!』とけだもののようにさけびつづけるのです。」

 洗脳を繰り返し、兵士の人間性を破壊し、単なる処刑人へと貶める。彼らが必要とするものは、死体を積み上げるための武器であって、そこに騎士道精神など介在するはずもない。武器の供給の伸びを期待する人々にとって、彼らは消費の一端を担う理想的な殺し屋である。しかしネルソンさんは、ある村落を襲撃した最中に体験したことがきっかけとなり、人間性を取り戻す。
「反撃され、民家の防空ごうに逃げ込むと、若い女性がいた。おびえ切った目。裸の下半身から何かが出ている。なんと出産中だったのだ。思わず赤ん坊を抱き上げた。女性はへその緒をかみ切り、赤ちゃんとジャングルに逃げた。そのとき悟った。ベトナム人も同じ人間だと。『共産主義者』は人間ではないと教え込まれていたが、それは間違いだった」(神戸新聞2006年3月10日付「トーク&とーく」)。
ネルソンさんは、この経験後に起きた変化について次のように述べている。
 
「防空壕の暗闇の中で、ベトナム人の女性から新しい命がこの世にあらわれ出るのを、この目で見つめ、この手で感じたあの日以来、わたしはほんとうに必要なとき以外、銃を使わないようになりました。
もはや戦闘はハンティングなどではなく、危険な任務にエキサイトすることもなくなりました。銃を乱射することもなく、ただ、自分が生きのびるための最低限のことだけを考えるようになりました。」

 可能な限り交戦を避けながら、出来るだけ武器を使わないようにする。この、如何に生かすべきかを是とする生き方に転じた辺りは、騎士道精神を思わせる。しかし彼は騎士道的道徳を越えた、もっと根源的な価値観を悟ったのだろう。教条的に硬直化しがちな道徳としてではなく、善いと実感のできる根源的な価値感覚である。つまりこれが道(タオ)的感覚というものではないのか。それは最早、兵士として戦うには決定的と言えるほどの足枷となってゆく。
帰国まであと2週間となったある日、湿原での長い交戦の末、ネルソンさんは1人のベトナム人青年を射殺した。
「自分が殺したベトコンについては、報告するためにその死体を調べることになっていました。
わたしは彼の持ち物を調べました。
彼のズボンのポケットに財布があり、1枚の写真が入っていました。
その写真の中では1人の男性と2人の女性がほほえんでいました。
年齢からすると、死んだ若者の父親と母親、もう1人は姉か妹のように思われました。
写真を持つ指がふるえ、突然、涙があふれ出てきました。
わたしはこんな思いにとらわれたのでした。
この父親と母親は、自分の愛する息子がたった今、撃たれ、死んだことを知らないのだ、と。
ベトナムに来て初めて流した涙でした。」

 カタルシスなどなく、英雄気取りも名誉に思うこともなく、まして国がやっている戦争など、もうどうでもいいのである。そこにあるのは、人を殺さなくてはならなかった圧倒的な悲しみと苦痛だけである。
ベースキャンプに戻ったネルソンさんは、15日後には本国に帰還できるにも関わらず、すぐさま軍医に頼み、負傷者搬送用のヘリコプターに乗り込んだ。こうして彼は、ベトナムの戦場を後にしたのだった。
 
 5)
 ネルソンさんを、か弱い形容するなら、たちまち齟齬をきたす。同様に、バルラハについてもそうである。ならば、彼らの状態をいかに表現しておくべきか? 自然や宇宙との調和の中に生きる根源的な人々、故に敬虔であり、寛(かん)としている人々、等。ややもすると、現代文明の側からだと弱々しくも映る。しかし彼らの生き方は、生命力の力強さの中に生きるが故に、いかなる悪性の破壊力にも勝るのである。老子の第36章「優しい柔らかな光」は以下のようなものである。

道(タオ)というのは、
とても微妙な働きのものだ。
しかし、よく見れば、明快なんだ。
世の中はどんなふうに動いていくかが、
見えてくる。

勢(いきおい)づいているものは、
それをさらに勢づかせると、
早く萎(しぼ)むことになる。
強大な権力には、
もっと強い力を持たせると、
いっぺんに崩れ去る。
流行しているものは
もっと流行(はや)らせれば、
たちまち消えてしまう。だから、もし
奪いとりたいものがあったら、それに
まずたっぷり与えることさ。

柔らかなものが
固いものに勝ったり
弱いものが
強いものに勝ったりするのも、
みんなこの微妙な働きからくるのさ。
それは優しい柔らかな光なんだよ
どんな強い力よりも勝るもの
魚が深い淵にいる時、
静かに生きて動いている
あの動きなんだよ。
あの光なんだよ。

ぎらぎらした武器をみせつけて、
脅(おど)したり強がったりしたって、
長つづきはしないんだ。

 『老子』を引用してしまうと、余り書くことがない。解釈を述べるなどという不遜な気は起こらないし、まずは読み手が感じることが肝心だと、訳詩を紡ぎ出した加島祥造さんも言っている。余計な事を書き連ねて複雑にしてしまうと、却ってその深みを見逃してしまう。でもせっかくだから、邪魔にならぬ程度に、自分なりのことを少しだけ書いてみたい。
 生と性、宗教や道徳、政治と社会、こういったものが硬直化した時、人間の生命力は阻害される。しかし、水の浸食がやがて岩をも砕くように、弱く柔らかな生き方が変革をもたらすのである。この生き方は生命に根差しており、死の誘惑とは対極にある。弱く柔らかに見えるのは、生命力が充実しているからである。そこにはしなやかな意志があり、意地を見せる時だってある。生命の中に生きようと欲するからこそ、硬直化したものに抵抗したり意地を張ったりする。
 ネルソンさんは、壮絶な死の領域を徘徊しながら、タオ的な生き方へと辿り着いたのである。件の退役軍人も、死の領域と懇意になることに嫌気がさし、騎士道という防波堤を築いた。だがその構えは、軍隊や戦争を否定するものではないだけに境界線は脆く、結局は死の領域へと引き込まれかねない。軍隊に対して抱かれるロマンチックな幻想とは、つまりこういったものである。そこを跳び出すのなら、騎士道からも解き放たれ、タオ的な生き方に向かうことだろう。騎士道もまた、善く生きることを目的とする技術であるから、突き詰めるならそうなるはずである。道徳としての騎士道は、単純で根源的な生き方へと吸収される。ただ「そうしたいから」、あるいは「そうしたくないから」といった、個人の内面への信頼に裏付けられた生き方へと変わってゆく。それは、ネルソンさんが迎えた内的変化と同じ地平に違いない。
 《ベルゼルケル(戦士)》や《復讐者》を眺めていると、バルラハもまた、騎士道精神の人だったのではないかと思う。だが『老子』に親しんでいたバルラハは、道教や騎士道が掲げる道徳を越えた、根源的な姿(生き方)をも模索していたのだろう。《復讐者》の制作は、そうした思索の展開を試すよい機会となったのではないか。『老子』は急場の指南役のようにして現れたのかもしれない。戦場へとはやる騎士道を制し、自分にとって武器を取る時とは、果たしてどんな時なのかを徹底して自問させたのだろう。それは、軍隊や戦争の否定へと至る洞察なのである。
 
      
《揺れ動く父なる神》
1922年、エルンスト・バルラハ財団(ギュストロー)蔵
《《歌う男》
1928年、エルンスト・バルラハ・ハウス(ハンブルク)蔵
《再会》
1926年、エルンスト・バルラハ財団(ギュストロー)蔵
  
■参考文献

1)イアン・ダンロップ著『展覧会スキャンダル物語』(p.311)千葉成夫訳 美術公論社1985年.
2)展覧会カタログ『ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ』(河合哲夫著「ナチ時代のバルラハ」pp.35〜36)朝日新聞社2006年.
3)『展覧会スキャンダル物語』p.313.
4)上野弘道著『木彫の詩人 エルンスト・バルラッハ』(pp.65〜68)新日本出版社1993年.
5)展覧会カタログp.31.
6)アレン・ネルソン著『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』講談社2003年.
本文中、『老子』の引用はすべて、加島祥造著『タオ―老子』筑摩書房2000年.

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