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new2006.10.20
 web展評 目次

〈越後妻有アートトリエンナーレ2006〉

非合理という雨
文●大倉宏 Hiroshi Ohkura 
美術評論家



 今年で3度目になる大地の芸術祭は、初日の次の日に行って1泊2日。会期後半にもう一度1泊2日して計4日、車で見て回った。特に「空家プロジェクト」作品をメインに市街地から遠い場所を集中して回ったせいもあり、松代の町中や城山、また福武ハウス他いくつかの話題作は見ることができなかった。
 ということで、これは全体の感想と言えない。もっとも1回、2回の分を含めて全部で360もの「作品」が、広い山あいの地域に散らばった展覧会の、全体を見た人がどれほどあるだろう。新聞発表によれば、50日の会期に30万人が訪れたという。
 そのほとんどは、自分が見た部分の印象を持ち帰ったのではないか。
同じようなことを3年前の評に書いたのを思い出すけれど、「部分の印象」には別の意味もある。例えば同じトリエンナーレ形式で開かれてきた横浜の場合と異なり、この美術展には「テーマ」の設定がない。テーマ設定にどれほどの意味があるかは分からない。とはいえそれは、全体をプロデュースする主体の意志の宣言であり、見る側からすれば、催し全体について感想を紡ぐ、ひとつの手がかりになる。今回ひとりの観客が、全作品を仮に見て回り、すべての催しに参加しても、個々の、部分の感想とは別に「美術展」としての全体イメージは依然曖昧のままかも知れない。「テーマ」の空白が象徴するように、全体を構成する主体のイメージがよく見えないからだ。

 今夏は猛暑だったが、妻有に行った日は最後の一日を除き、雨と曇りに恵まれた。ふと思うのは、この芸術祭そのものが、妻有という地域に降った雨のようなものだったのではないかということ。そう考えると、多くの作品が、なぜかくもはなればなれに設置されなければならなかったかが、腑に落ちてくる。
 雨は「非合理」である。大地の芸術祭は、過疎化した山間地域の活性化策として、そもそも発想された。道路整備や公共施設の近代化、農業への経済支援などの合理的な資金投資が阻止できなかった状況に、逆にアートという非合理に資金を投資する手法で立ち向かおうとしたのが総合プロデューサー、北川フラムの発想だったと考えれば、そのアイディアは3回の開催を通じて、目に見える成果をあげてきた。国際美術展の「テーマ」が、現代の多様な表現を受け止める側の主体を指し示す符牒なら、大地の芸術祭ではその主体は、自らが表現を受け止めるのでなく、いわばボールをパスするように、さまざまな地域に弾いて、それらを放った。
 放たれた「非合理」を、アートになじみのない山間地域の人々がどう受け止めてきたか。そのドラマが、外から訪れた観客に見える。それがこの3回の催しの面白さであり、妻有が日本の全体社会と美術の関わりを、様々な角度から考えさせられる現場ともなった所以だったと感じる。
 6年前の第1回では国際的な知名度の高い外国作家の参加が話題となった。その影で、日本や非西欧の作家たちが、印象に残るいくつかの作品を制作したが、同時に既成の展覧会場に出品する気分で臨んだ作家たちの制作物が、一様にみじめに見えた。
 地元の反発と無関心が話題となったが、外からは見えない場所で、アーティストと土地の人々の関係が芽生えていたことが、2回目以降に見えるようになる。
 第2回で目立ったのは、場所への関心である。住民参加型あるいは地域に入り込んで制作される作品が増えた。空家の内部を展示スペースとした印象的なインスタレーションがいくつも作られ、また風景、あるいは場所に佇ませることを仕組む作品や、この地域をも襲った近代化への批評的視線を刻んだ秀作が生まれた。キナーレ、農舞台、キョロロなどのアーティスティックな公共建築が実現したのもこの回。地元のあからさまな反発は表面的には影をひそめ、多くの空家が提供されたことが「雨水の浸透」を感じさせた。
ボルタンスキー+カルマンの『最後の教室』  (写真:H.Kuratani)

 中越地震という大きな災害の後に実現した今回は、前回広がった地域密着、浸透型の表現がさらに一般化した。雷は遠くに去り、私が今回の初めに行った日のようなこぬか雨が、地域の隅々まで濡らしはじめた感じ。作品が地域に、場所に、開かれてきた。今回の傑作であるボルタンスキー+カルマンの『最後の教室』は、学校の内部を完全に閉じることで、強度ある異空間を作り出したが、作品としてはどこか全体のなかで浮いて見えたのは、そのせいだろう。

 地域密着の方向と地域再生という芸術祭の隠しテーマが、手をつないで形となったのが今回の「空家プロジェクト」。空家を改修した第1回の『夢の家』(アブラモヴィッチ)に感動し、タレルの『光の館』が地域の古民家をモデルとしたとの説明に違和感を感じた者として、2回目以降の古民家を会場とした作品には関心を持ち続けてきた。ということで、最初にも書いたように40もあるという空家プロジェクト――空家や廃屋となった民家をアーティストと建築家の協同で再生し、新たなオーナーに渡していこうとする試み――の作品を中心に今回は見て回ることにした。私の感想を書けば、このプロジェクトは地域再生という課題への優れた解答であると同時に、この催しの「芸術祭」としての側面に、ある変質をもたらしているとも感じた。純粋な非合理に、合理という不純が混じり始めた感触といったらいいか。
「脱皮する家」 (写真:Kazue Kawase)

 建築家とアーティストの協同の可能性と危うさ、と書くと大袈裟だけれど、建築家が関わり、オーナー探しという現実的な条件が介入することで、どこか非合理が合理の側に引き寄せられたり、非合理と合理が軋んだり、噛み合わないまま併存するような感触や不消化感などを、感じずにいられなかった。第2回より数は増えたのに、衝撃力ある作品が少なかった気のするのはそのせいかも知れない。
 民家を場とした作品のうち、話題を呼んだ「脱皮する家」は、古い民家の梁や柱など木部すべての表面に彫刻刀で刻みを入れた「再生民家」。この作品は制作中にも見たが、その時も今回も、足を踏み入れた時言いようのない違和感を覚えた。他方で好感を感じたのは、斎藤美奈子『Memory‐田野倉プロジェクト』、前山忠『新視界・湯山の家』、ビリ・ビジョカ『田麦の本』など。
斎藤美奈子『Memory‐田野倉プロジェクト』
(写真:T.KOBAYASHI)




 斎藤は村に嫁いだ一人の女性の記憶を、写真で再構成して、民家に展示した。写真の質とテーマの質、家の空気と神経の行き届いた展示に強いつながりが感じられた。
 前山は職人の住まいで、建て具にも工夫の凝らされた魅力ある家に、あえて多く物を作りこまず、框に白木の枠をはめ、フレームアップにより家の空気との間に「眺める距離」を作り出した。土地の布などを使って共同で手作りの本を制作し、朽ちかけた蔵に置いたビジョカの作品は、蔵の内部と言う心地よく閉ざされた場所から、ナイーブな精神の洞窟を引き出してみせた。
前山忠『新視界・湯山の家』  (写真:H.Kuratani)

 これらに共通するのは、家への敬意。3回の大地の芸術祭を通じてかなりの数の、この地方の古い、築後100年以上の民家内へ足を踏み入れることができたが、あらためて感じたのは、近代以前の地域の文化が抱える豊かな非合理の気配だった。家ばかりではない。こんな場所にまでと思う山奥にまで集落があり、田があり、方々に大木を祀る神社があることに驚いた。はじめて訪ねた鉢という集落の不思議な石仏群の周囲にたちこめる強い霊気。地域に刻まれてきた「文化」の奥深さと、そこに根をはる非合理の波動が、場合によっては作品の非合理を圧して寄せてきた。

『うぶすなの家』 戸高千世子『山中堤 スパイラルワーク』(写真:Kazue Kawase)
 古い民家にもこの波動は溢れている。建築家の安藤邦廣と陶芸家たちの合作『うぶすなの家』は見事な民家再生の事例と言えるが、新材と接合されて甦った家の黒ずんだ梁のまさかりや手斧の刻み跡には、各所に配された陶芸の作品を小さく見せるほどの力がある。松材を刻んだ100年前の職人に「アーティスト」の意識はなかったとしても、その仕事には合理と溶け合った非合理が確かに存在した。同じ民家でも工業化時代の家との差は明瞭で、空家プロジェクトめぐりはそれを確認する旅に図らずもなった。「脱皮の家」への違和感はまさかり、手斧で刻まれた梁や柱、床板、さらには漆喰壁にまで入れられた新たな刻み目の弱さから来た。木部や壁を徹底して刻むという行為の「分かりやすい非合理」が、再生という合理とつながって「空家プロジェクト」のシンボル的作品と受け取られたのが話題の背景にあるのだろう。しかし分かりやすいが、過去の職人の手と目と心の力に感応する繊細をもたない表現が、「最後の教室」のような作品と「展覧会場」に同居したこと。それが民家再生という合理の名のもとに許容されてしまったことに、催しの「芸術祭=企画展」としての弱点を感じたことを記したい。
カナリア・カイコネン『明日に架ける橋のように』
(写真:H.Kuratani)

 民家以外の作品で、印象に残ったものを挙げる。用水池に無数の陶器の瓶を浮かべた戸高千世子『山中堤 スパイラルワーク』では、モノが思いがけない形で接続することで、水の風景が不思議な光沢を帯びていた。2回目に引き続き場所を体感させる仕掛けの作品がいくつかあったが、特にヘンリク・ハカンソン『音の波』は選択された場所が魅力的で、仮設の観客席で音を聴くという仕掛けの心地よい自然さが良かった。大峡谷にカラフルな古着の釣り橋を架けたカナリア・カイコネン『明日に架ける橋のように』や話題となったレアンドロ・エルリッヒ『妻有の家』は、分かりやすさの中に爽快さと柔らかい批評が感じられて面白かったし、中澤克巳の『フローティング・バンブー』も特撮映画の空間を現実に作ってしまったような徹底さに気持ちよく笑えた。妻有にほど近い浦川原村で、興味深いプロジェクトを継続してきた原高史の作品は、雨に祟られたのと、家々の窓をパネルで塞ぎ、言葉で外に開いていく表現は時間をかけてみたくなってしまうことを知っていたので、空家プロジェクトめぐりを優先した今回は、車で通過して眺めただけだったのは残念だった。
 
中澤克巳 『フローティング・バンブー』
(写真:Kazue Kawase)
原高史の作品 (写真:H.Kuratani)
 新潟県が財政支援を行うのは、今回が最後となり、次回以降は、新しい形での開催が模索されていくことになるという。3年毎の山あいの作品めぐりを楽しんで来た者としては、当然催しの継続を望みたい。芸術祭が祭である限り、新しい試みや作品が求められるのは当然としても、すでに設置された作品の今後も気になってくる。規模が大きな作品ほど、維持には技術と経費と手間がかかる。具体的には特に「最後の教室」の今後が他人事でなく心配。作られた作品をすべて維持していくことが必要かどうか。場合によっては再度批評し、選択していく作業の意味と比重が、これからは次第に大きくなってくるのではないだろうか。
 想定されるその作業が、私は地域だけに委ねられるべきではないと思う。企画展の後始末もまた、企画者の大切な仕事だ。その難しい作業の中で、見えにくかったこの催しの主体のイメージも、あるいは私たちの前に確立されてくるのかも知れない。

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