web展評
new2006.10.30
 web展評 目次

アルベルト・ジャコメッティ展 
矢内原伊作とともに

愛の衝動


文●石橋宗明
ISHIBASHI Muneharu
(美術展覧会企画者)
■兵庫県立美術館
2006年8月8日〜10月1日
神戸市中央区脇浜海岸通1−1−1
пD078−262−0901

■川村記念美術館
2006年10月10日〜12月3日
千葉県佐倉市


 今回のジャコメッティ展では、矢内原伊作をモデルとした、数点の塑像と絵画を併せて見ることができた。ここでは、特にその絵画について述べてみたい。しかしそれは、塑像についても言及できるものと思う。

「見えるものを見える通りに実現すること」。ジャコメッティが追求していたものについて、矢内原伊作はそう書いている。モデルと作者との距離や位置、「正しい」カンヴァスの高さなどに徹底してこだわるジャコメッティだったが、もし私の関心が、そんなマニアックな点に終始してしまっていたのなら、閉塞感に捕らわれてしまい、結局何も見えてこなかったに違いない。ジャコメッティが対象と向き合う際のマニアックな姿勢は、彼独自の絵画を成り立たせている大きな要素である。だがそれは、彼の藝術の本質とは違う。神経症的とも思える彼のマニアックな面が、重要な端緒となっているのだ。そこへ健康的な意志(思考)が介在することによって、超越的な認識へと踏み込んで行くことができたのである。その超越的な認識こそが、本質である。
 カンヴァスに描かれた矢内原の顔は、まるで焦げ付いた凝視の堆積だ。確かに矢内原はそこに描かれてはいる。それでいて、肖像は背景の闇に消え入りそうである。そしてその背景もまた、肖像の輪郭を支持することもなく溶融し、同じ流れの中に向かおうとしている。夜の帳が下りてしまっても尚、カンヴァスに向かっていたが為に、そうした画面になっていったのだろう。しかし、それだけではない。最早、明度には左右されない状況にまで彼の認識が及んでいる、その様な状態をも描き込んでいるのではないか。

 ぼくらはアトリエに戻り、夜の仕事を続けた。貧しい裸電燈の下で仕事を始めながら、『ああ』と彼は感嘆の声をあげる。『何ですか』ときくと、『今きみの背後に美しい湖が見えた。夕焼けの光を受けた大きな湖水だ、恍惚となるほどすばらしい湖だった。残念ながらそれは一瞬で消えてしまったが、私はそういう背景を描かなくてはならない。透明で、光っていて、無限に広い背景を』」
※1
 このことに関して、矢内原の解釈はどの頁にも見当たらない。唯物論へと硬直するのではなく、空想の世界に戯れるでもなく、あるがままに記録するに留めたのではないか。だがそれは、ジャコメッティの認識が通常の範囲を越え出ている様子を如実に伝えている。
 此処にいたって私は、ルドルフ・シュタイナーのことを思い浮かべていた。以前に読んだ彼の著書の中に、思い当たる節があったのである。無理を承知で一節だけを書き出すならば、例えば次のような件である。
 「私が他の人に向き合うとき、いったい私はまず何を見るのか。私は眼前のものに眼を向ける。そこには知覚内容として相手の身体が感覚的に現れている。そして彼が語ることを私の聴覚が知覚する。それらの知覚内容のすべてを私はただ受容するだけではなく、同時に私の思考をも働かせる。思考を働かせながら他の人の前に立つとき、この人の知覚像はいわば魂の像となって透明に見えてくる。知覚内容を思考によって把握するとき、私は自分が外的な感覚的知覚として現れるものとはまったく異なるものを把握している、と自分に語らざるを得ない」
※2
 こういった事柄は、これまでの私の経験を越えている。そこで迂回しつつ、それが意味するものを探ってみたい。
     
  
 思考することによって、すなわち数多の表象と関連させることによって理解が生じ、概念となる。例えば私の場合、美術館や画廊で、何かの美術作品に関心を持ったとする。その後、一端は忘れてしまったとしても、改めてその作品について考える内に、理解に達していることがある。そうだ、これは本当だと直観する。それは様々な表象との関連から始まるのだが、やがて直観を得ることもあるのである。日常の感覚とは違った、純粋な思考レベルとでも言おうか。その時、作品の持つエッセンスが立ち現れるのだが、端的に言うならば、それは愛かもしれない。それは意識化された私の衝動でもある。また、それは宇宙的な衝動とも同質である。真の藝術というのは、愛の衝動を思い出させようとする力を秘めているともいえる。そんな藝術作品であれば、それを前にして、あるいはその表象を浮かべながら健康な思考を働かせるならば、誰もが同じ直観を得ることができる。藝術家のように制作ができなくても、得られる直観は同じである。それは正触媒である。シュタイナーが言っているのは、例えばこうした触媒を制作できる藝術家のことでもあるのではないか。

 ジャコメッティは、現実事物の背後に広がる超越的な現実を洞察し、実際に見てもいる。この場合もやはり作者は、事物の表象を他の表象と関連させ思考することから始める。するとそこに直観が働くのである。ジャコメッティの良き理解者である矢内原が、ジャコメッティとよく似た風貌をしているのは、興味深いことだ。ジャコメッティは、矢内原伊作という人物について思考を巡らせる内に、彼とジャコメッティとは同質の衝動をも有していることを直観したのではないか。ジャコメッティは当初からの洞察に従い、彼独自の方法を用いて探究を試みたのだろう。件の不思議な肖像画は、そんな超越へと至る変化を記録したものではないか。そしてそれらの絵画に出会い、思考を巡らせる私たちもまた、同様の直観を得ることが可能なのである。愛の衝動を直観するのである。
 クロード・ルルーシュ監督は、短い詩的なシークエンスでもって、ジャコメッティの藝術の本質を語っている。映画『男と女』の中に、主人公の2人が海岸を散策しながら語り合う場面がある。その際、ジャコメッティのことが話題になるのだが、以下のそれが本当にジャコメッティの言葉なのかどうかは私には分からない。でも、いかにも彼らしい言葉だと思う。犬を連れたコートの男、その後ろ姿。それが海辺の陽光に溶け込み、あの痩身の彫刻のようにも見える。

アンヌ:素敵ね、あの男性と連れている犬。歩き方までそっくり。
ジャン:本当だ。……ジャコメッティを知ってる? 彫刻家の。
アンヌ:ええ。彼ってハンサムよね。
ジャン:うん。その彼だけどね、こんなことを言っていた。「もし火事になって、レンブラントか、一匹の猫かのどちらかを選ばなくちゃならないとしたら、猫にするって」
アンヌ:「そして、後で猫を放してやる」
ジャン:そんなことも?
アンヌ:なんて素敵なんでしょう!
ジャン:そうだね。藝術と生命、彼は生命を選ぶと言うんだ。
アンヌ:素晴らしい! でも、なぜそんな話を?
ジャン:ジャコメッティのこと? あの男性と犬さ。


        
■参考文献
※1 矢内原伊作著『ジャコメッティ』宇佐見英治・武田昭彦編 みすず書房 1996年/p.124
※2 ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』橋巌訳 ちくま学芸文庫 2002年/p.288
(会場写真:筆者撮影)

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