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new2005 5.3
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冨岡雅寛カオスモス展 '05[Like Clinamen]

文●宮田徹也
(日本近代美術思想史研究)


2004年4月4日〜16日
art space kimura ASK


  2004年4月4日から16日まで、東京・京橋art space kimura ASK?で行なわれた、〈冨岡雅寛カオスモス展 '05[Like Clinamen]〉をレポートする。
 
 カオスモス・マシン・オリジネーター[Chaosmos Machine Originater]、冨岡雅寛(とみおか まさひろ)は、1954年、北海道に生まれ、1974年〜1975年に、美学校の細密画工房で立石鐡臣に師事する。1994年、カオスモスシリーズを創めている。

 初めての個展は、鎌倉・画廊遊(1994年2月9日〜14日)における、〈トミオカマサヒロ カオスモス展〉であった。その後、〈メビウスの卵展〉、数々のグループ展を経て、銀座・小野画廊U、新橋・マキイマサルファインアーツ、横浜関内・gallery CRADLE、原宿・ギャラリーカロカロハウス、代官山・Hair Salon INITIATE、高円寺・Para GLOBE、日本橋・SPC GALLERY 、茅ヶ崎・ギャラリー街路樹、麻布十番・メディアバーインフォキュリアス等で、年に三、四度、個展・共同企画展を開催している。2005年は、横浜美術館アートギャラリー(3月6日〜3月20日)で単独の展示を行なった。

 カオスモスマシンの特徴は、鑑賞者が「能動的」にマシンに触れて現象を起こすことにある。鑑賞者は、電力も何も通されていないカオスモスマシンに触れる。すると、カオスモスマシンは鑑賞者が与えた力によって、動き出す。動くのは棒だったり、磁石であったり、マシン自身であったり、様々である。するとそこに「現象」が現れる。それは、科学的な流れのパターンや振動のパターンではあるのだが、その具現化が目的なのではない。鑑賞者が与える力加減によって、その「現象」は毎回異なったものが現れる。鑑賞者自身が「能動的」に関わること、それがカオスモスマシンの目的がある。だからカオスモスマシンは、多様な形で存在する。アルミ棒を組み合わせたもの、流体を用いているもの、影を利用するものと、様々である。サイズも、池の端から端まで届く位、大きなものや、掌に乗る位小さいものまである。そこに共通する事項は、総て人間が扱えるサイズであるということだ。

従来の美術品は、「能動的」に関わることが、ほとんどできない。本来、「美」とは、与えられたものを「見る」のではなく、自分で探して、「読む」ところにある。古代の壁画も、教会や寺に附属している宗教画も、詳細に読み込まなければ、その真意は見つけることができない。「見る」という、視覚的要素が重要視されるようになったのは、近代以降である。このように「能動性」を重視する冨岡のカオスモスマシンは、権威的な美術を「見る」ことに慣れている方々にとっては、「扱い方がよく分からない」、自然の現象を加工した表現に馴染んでいる人々にとっては、「現象が生々しすぎる」とみられることが、多々ある。そうだからこそ、「美術」そのものを問い直すきっかけを、カオスモスマシンが与えてくれるのだ。冨岡は、そのHP(http://www.chaosmos.jp/index.html)で、自らの活動を解説しているので、こちらも御覧戴きたい。

 
冨岡雅寛「chaosmos Clinamem Machine2」
撮影 冨岡雅寛
  今回の展示は、『カオスモスクリナメンマシン2』(1998年制作)唯一を台に置き、ここに現れる現象を、3台のビデオカメラとプロジェクターを使って、壁面三箇所に連続して、画廊の半分の面積に、パノラマ状態で映し出すものであった。ビデオカメラ設定を行なったのは、ヴィジュアル・アーティストの倉嶋正彦である。前回の横浜美術館アートギャラリーの際には、あらゆるタイプのカオスモスマシン、14台を展示した。それに比べれば、とてもシンプルで贅沢な空間になった。カオスモスマシンに固有の名前が付けられていることも珍しい。それだけ、冨岡のこのマシンに寄せる思い入れが理解できる。冨岡は、ミッシェル・セールの『ルクレティウスのテキストにおける物理学の誕生』から、ヒントを得たとしている。
冨岡雅寛「Chasmos Clinamen Machine2」
撮影 飯村昭彦


 『カオスモスクリナメンマシン2』は、大人が両手を軽く広げた程の幅の長方形の黒い箱の中に、シルバーの顔料が溶かされた水が張ってあり、左右に動くレバーが取り付けてある。それを動かすと、シルバーの水の中をパチンコ玉ほどの球体が、おぼつかないながらも同じ方向に向かう。玉は磁石であり、レバーにも磁石が添えられて、その力により玉は誘導される。その同調しながらも危うく転がる玉が、シルバーの水に二度と同じものはつくれないであろう波紋を形成する。レバーを動かす速度、方向によって波紋は違う表情を見せる。早い・遅い・右・左の選択肢しかないにもかかわらず、この四つを組み合わせれば、無限の可能性がある。同じ条件で動かしたとしても、同じ波紋が生まれるという仮説は、成り立たない。何故なら、水に解けている顔料が、常に同じ比重で沈んでいるとは限らないからだ。顔料を水中に浮かび上げるために、いちいち筆でかき回せるのが美しい。水底を撫でて、眠っている顔料をまるで子供を起こすように呼び覚ますのだ。刺激を与えなければ、顔料は水の底で眠っているだけだ。起こされた顔料がいつも同じ表情のはずがない。私たちが何時も同じ顔をして目覚め得ないのと同様に。
ASK展示 撮影 飯村昭彦


 この『カオスモスクリナメンマシン2』が、壁面一杯に、巨大に投影される。マシンのレバーを動かすと、同じ動きが立体的に現れる。音を拾ってスピーカーで流す配慮もなされている。左右の果てに行くと、球が見えなくなる設定がいい。これによって、手元のマシンに注意を払うことになる。平面であるマシン自体の映像と、投影されている立体的な映像を交互に見ることによって、現象そのものの詳細に注意を払うようになる。例えば左端で現象を起こして、すかさずレバーを動かして右端で止めたとしても、左端の現象は、ゆらゆらと続いていて、全体に拡がる前に潰えるのだ。これを、平面でみる時と一直線の連続性を感じるのだが、立体で見ると右と左の関係性が浮き彫りになる。同じ現象であるのにどちらが正しいのか。では、正しい現象とは何かという問いにも結びつき、飽きることが全くなかった。この立体的な映像で気付いた点は、カオスモスマシンが沈黙している際にも、それだけで美しいことだった。眠っているわけではなかったのだ。マシンは人が来るのを待っている。その待機する姿が有機的で、止まっているにも関わらず、既に何かしらの力が蓄えられているイメージを発見した。
   ASK展示 撮影 飯村昭彦

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