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new2006.1.5
 web展評 目次

第3回福岡アジアトリエンナーレ2005


激しい現実から一歩身を引き、ゆらゆら漂う


文●藤田一人
Kazuhito Fujita 美術ジャーナリスト


〈第3回福岡アジアトリエンナーレ2005〉
9月17日〜11月27日
福岡アジア美術館
福岡市博多区下川端町3‐1
リバレインセンタービル7・8F
電話092−263−1100

●転機にある国際現代美術展

 もはや“前衛”という言葉は、余りにも古く、手垢にまみれたものになってしまっているようだ。が、未だに“現代美術”なるものを指向する人々にとっては、それが尻尾のように付きまとっているようだ。それは、“いま”という時代の空気を敏感によみとり、その最先端を切り開くという意識と斬新なスタイルに反映されている。そして、今日世界各国で開催されている“ビエンナーレ(隔年開催)”、“トリエンナーレ(三年に一度開催)”等と銘打たれた国際現代美術展は、世界の“現代美術”と称される趨勢を確認し、知らしめ、さらに今後の展望を模索するものとなっている。

 しかし、そういった催しも数が増え、頻繁に行われれば行われるほど、“最先端”なる新鮮さは薄れ、さらなる“新鮮さ”“先端性”“独自性”なるものを追うことで、次々に現状の芸術作品や傾向を消費し、その流行のサイクルを短くしていかざるを得ない。で、それに抗するかのように、知恵を絞り、新たなるテーマを掲げ、現状を読み直し、刺激的な問題意識を印象付けようとすればするほど、美術における“現代”なるものは大きく浮かび上がっているのかもしれない。ただ、そこに我々が日々生き、対峙する等身大の社会の“現状”“現実”とは、どこかズレが生じ、それが大きくなってきているのではないか。

 そんななか、第三回目となる〈福岡アジア美術トリエンナーレ2005〉(9月17日〜11月27日)は、そうした現代美術と現代社会の関係を問い直す試みと言えたのかもしれない。

 そのテーマとして掲げられた「多重世界」なる言葉の意味。この世界というものは、さまざまな階層、世代、価値観が多重に折り重なって構成されているもの。“社会”が“多重”であることは当たり前のことだ。が、それをあえてテーマとしたのはどういうことなのか。そこに、これまでとは少々違った同トリエンナーレのあり方があるようだ。
 

●芸術による相互理解の疑問

 「多重世界」なるテーマに対して、トリエンナーレを担当した福岡アジア美術館の黒田雷児学芸課長はこう言った。
 「日本語訳として“多重世界”という言葉になったが、本当は英語の“Parallel Realities”という英語の言葉が最初にあって、その意味のほうが今回の内容を正確に表している」。

  “Parallel Realities”=「並立するリアリティ」と言えばいいのか。とにかく、現在展開されている、アジア各国の現実を反映する等身大かつ多彩な現代美術の現状をアトランダムに並べてみようというところだろう。ただ、それは今日、アジアの美術を通観、検証するなかで、到底ある一つのテーマでは括りきれない。というよりも、展覧会企画者としてあえて括りたくないということなのだろう。

 さらに黒田学芸課長は、これまで同トリエンナーレにあった“コミュニケーション”、“交流”なる論理からくるテーマを敢えて想定しないようにしたのだと言う。それは、あの9.11以降の世界において、そのようなものにこの世の中のどうしようもない問題を乗り越える希望を見出すことなどできないということなのだ。そこで、この厳しい現実に息づくアジアの現代美術の現状を一つの方向性を押し出さず、素直に直視しようという意図が今回のテーマになったというわけだろう。

  「“多重世界”という概念は、グローバル化が、世界を均質化し文化の交流を容易にするという楽観的な考えに疑いをつきつけます。むしろ、本展は、排他的なナショナリズムや原理主義、和解・共存の可能性を断念した分離主義、仲間内への現実逃避が発生せざるを得ない厳しい現実を冷静に見つめることから出発します。そのうえで、それぞれの個人や共同体が、孤立や逃避や他者の排除を乗り越える道をさぐります」

 と、黒田課長は同トリエンナーレのカタログに書いている。現実を直視することで現実の超越を模索する。そこには現代をリアルに捉え、新たなる可能性を見出すという、現代美術展の原点に戻り、直球勝負の姿勢が溢れている。しかし、幾らパラレルに現状を直視するとはいっても、ある枠を設定しない限り物事を把握することはできない。そして、今回も現代のアジア美術の多様性を、あくまで欧米がリードしてきた“現代美術”なる価値観と様式という枠組みのなかで捉えようとしていることには変わりない。

 で、そんな〈福岡アジア美術トリエンナーレ2005〉の全体的な印象をまず挙げると、「排他的なナショナリズムや原理主義……」というような、現代社会の混沌と、過酷な現実というものからは一歩距離を置き、全体的にどこか懐かしい、レトロなイメージが漂っていることは否めない。それを現代社会に生きる「精神的孤立、現実逃避」ということは確かに言える。しかし、そこに並ぶ作品群が、芸術作品であるなら、それそのものが「精神的孤立」や「現実逃避」であっても仕方がないのではないか。問題は、その「精神的孤立」や「現実逃避」が、どれほどリアリティをもって表現されているかだが、そこに表現され、提示されているリアリティというものには、今日の問われるべきさまざまな課題が、現実的な痛みや切迫感、必然性というものがさほど感じられない。あくまで、“現代美術”という表現における状況としか思えないのだ。

 今回、日本、韓国、中国等、アジア21カ国、50組、約80点の出品。特に出品者は1970年代生まれが中心で、最年少が1981年生まれ中国の遅鵬(チー・パン)、24歳。ということは、ほとんどが1980年代のアジアの経済興隆期に自我を育んだ世代。そんななかで、今回の出品作家・出品作品全体に言えることは、グローバル化のなかで急激に変化する都市生活の陽気な躍動感と、どこか捉えどころのない浮遊感の体現。また、その反動としてのローカルの地域性や民族的アイデンティティを求める歴史物語の追求ということが言えるだろうか。もちろん、そこに政治性や社会性を押し出す作品がないわけではない。ただ、今回の“多重世界=パラレル・リアリティズ”なるテーマの反映だろうか、さまざまな社会問題を背負い、吐露するような、ストレートで強烈な社会的視線や主張性というものは見当たらない。もはや、複雑怪奇な社会状況において、芸術というコミュニケーションによる相互理解や問題意識の共有などはありえないのだ、という雰囲気がそこにはある。つまり、美術・芸術なるものが未来の希望へと導くものではなく、非常に刹那的、内向的になっているということなのだろう。しかし、逆にそれを武器にして、各々の民族的歴史や内なる物語のなかに充足しつつ、したたかに新たな自己確立を図ろうとする、時代の表現者としての意欲の根強も感じられた。
 

●現代社会の陽気な刹那とノスタルジー

  そんななか、まず、現代的都会生活における、陽気で刹那的な欲望のあり様をインパクト強く示していたのが、中国、曹斐(ツァオ・フェイ)の『コスプレイヤー』だろう。言うまでもなく、アニメキャラクター等の衣装を身に着け、そのキャラクターになりきるコスプレは、今日の若者にとって簡単な現実逃避。それを淡々と日常生活に持ち込むことで、一見豊かに見えて何処か空虚な日常を超越できるかもしれないという願望。そのアッケラカンとして陽気さのなかに、急激な現在成長を背景という現代中国社会の刹那が体現されているようだ。


インドネシアのティマル・ダメ・ルス・シライットによるキッチュなピンクの衣装『プラスティック・ラブ』、そして、ベトナムのティファニー・チャンの『ふわふわの街』も同様に人工的な陽気さと刹那さを同居させた世界観だ。特に、後者の、いかにもかわいくカラフルに彩られた人工的な花園やお菓子の屋台は、まさにディズニー調の夢の世界そのものだ。ベトナム戦争終結から30年以上が経過し、近年ではアメリカとも近づき、資本主義に進出するベトナム。そんななかで、過去の払拭や共産主義政権における市場経済というどこかしっくりと来ない現状と、若者の素直な夢と言えるのかもしれない。そういう意味では、彼女にとっての現代美術とは、“夢の工場”としてのハリウッドに相通じるところがあるようだが、ハリウッドが夢を世界的な商品としているのに対し、その夢の世界は実に個人的な内なる城といえる。

 商業主義に根差した現代人の欲望を現代美術に取り上げるという姿勢は、バングラディシュのアブダス・サラムによる『バングラ・シネマ』の娯楽映画ポスターを描いたシリーズなどにも共通する。ただ、そこには、先に挙げたものとは少々違う、“大衆”と言える強い意識とともに、現実の欲望を徹底して受け入れるしたたかな強靭さを感じる。そして、そんななかに今日、私達の心をくすぐるノスタルジーが浮かび上がってくる。

 そうした現実社会からの逃避願望や刹那というものが、過去の懐かしいイメージに向かうのは、日本と韓国などに顕著なのかもしれない。日本の伊藤隆介のローテクを前面に押し出したと特撮アニメのインスタレーションは、ゴジラやウルトラマンなどへの郷愁を呼び起こす。今年、2005年に昭和30年代の映画や小説が多数ヒットした日本社会と日本人の心理が、そこにも反映されているようだ。

 1980年代以降、日本に続く近代化と経済成長を遂げながら、今日不況に悩む韓国でも同様の空気があるのだろうか。ホン・ソンミンは、韓国ではポピュラーだというキャラクターを立体そして映像に作品化。また、チョ・スプのスライドドラマと言うべき『かなわぬ恋』。そのテーマは、韓国を支配する暴力、反共、民族主義などの原点をあぶりだすというのだが、そこに溢れる懐古的イメージは、現実への反発というより、懐かしさとともに容認の雰囲気が漂う。

 もう一つ、ハム・ジンの展示室の床から高さ1cmの隙間に、三方計14.4mに渡って展開される極小の日常世界。そこでは、まさに私達は巨人となり小人の世界と対するように、床に這いながら覗き見る様々な日常的情景から、私たちの生活の健気な思いと刹那さを思い起こす事になる。

(*撮影はすべて藤田一人)


 曹斐 「コスプレイヤー」




ティファニー・チュン 「ふわふわの街」




アブダ・サラム 「バングラ・シネマ」シリーズ



伊藤隆介 「現実的な仮想性」


ハン・ジム 「向かい合う」

●民族的物語の希求

  そうした、一種先の見えない現代社会の刹那のなかで、大いなる物語を自身の内なる精神世界、または隠された古の歴史に求めようという作品もある。

 シンガポールのホ・ツーニエンは、伝説である初代マレー諸島の王で、植民地化以前のシンガポールの建国者であるサン・ニラ・ウタマの伝説的物語を絵画、写真の連作と映像作品で展開する。そこには、植民地化、そして近年グローバリゼーションのなかで置き忘れられてきた、自身のアイデンティティと自身の存在の信じるべき物語の模索と葛藤の証だろう。

 一方、タイのデーン・ブアサーンの水にまつわる生と死を内省的、神秘的な物語世界として表現し、どうしようもない孤独感とともに一つの精神的救いの希求を感じさせる。
また、都会的なファッションセンスのもとに、ローカルな風土に根差すアイデンティティを問うのが、タイのチャックリット・チムノーク。バナナの葉を用いた洋服をはじめとする生活ファッションは、激しく変わる現代と変わらぬ風土の幸福なる融合のドラマと言えるだろう。

 そんななかで、同じアジアと言っても、様々な近代化の現状を印象深く示したのが、ヒマラヤの仏教国、ブータンのVASTの仕事。仏教美術・工芸や生活工芸のような伝統的美術の教育機関しかないという同国において、VASTというNPO・NGO団体が職能としての美術・工芸技術ではなく、世に言う自己表現としての美術表現の普及を試み、子供の美術教室や地方村落でのスケッチ大会などのイベントを展開してきたという。今回はそのドキュメントとともに、創設者・指導者の一人であるカーマ・ワンディの作品が並んだ。そのワンティの作品、『包まれた風の馬』を見ると、同国のシンボルという“風の馬”が版で記された宗教的なお札のような布が、額に詰め込むように配され、ブータンの生活に息づく宗教世界を、個人的な自己表現として示す、素朴な萌芽を感じる。
 そこには、近代美術というものが持っている、小さな個人と大きな世界が対等に結びつく、ささやかだか心地よいものを再確認させてくれるようで微笑ましい。

 また、初めての国産アニメーションを作り、テレビで放映しようという、ラオスのカンハ・シクナウォンの挑戦も、未だ美術・芸術なるものの、人と人、個人と社会を結びつける期待を残す。





デーン・ブァサーン 「雨季に降る花」(左)、
「雨季の最後の朝」(右)



チャクリット・チムノーク 
「身体‐想像力‐乾燥したバナナの葉」


カーマ・ワンディ 
「包まれた風の馬」


●現代をゆらゆらと漂う美術

 ところで、日本の他の出品者はと言うと、ドイツ在住の塩田千春の『窓の家・第三の皮膚』。ベルリンの工事現場に捨てられていた旧東ドイツの人々の家の窓を集めて、家を再構築した作品。山口啓介の拡大した花から自然の生命観を再確認する絵画作品に、イラクで劣化ウラン弾の犠牲となった木版画による子供肖像。もう一つ、植物の断片を入れ樹脂でとめたカセットテープのケースを積み上げ、エレベーター内に作られた透明な壁。そして、角孝政のオタク的世界『不思議博物館』。前二者は、社会的問題に眼を向けつつ、外に向かって訴えかけるというよりも、内的な物語の成熟の方が根強い。
山口啓介 「星花冠紫金童」(右)、「Du child」(左)

 それに伊東隆介の仕事も含め、今回選ばれた日本の美術家たちにも 、どこか不安と懐疑が募る現実に対して、問題意識を持ちつつ、それを徹底して社会化し、現実的な希望につなげていくというのではなく、それを自己の内面的物語として構築し、充足する。そんなイメージが強くする。

 そういう徹底した現実の肯定と超越でもなく、また、否定と抗議でも諦観でもない。その間を根無し草のようにゆらゆらと漂う現状。それこそが、今回の“多重世界=パラレル・リアリティズ”なるテーマの本質なのかもしれない。

 そして、同時期に開催された国際現代美術展〈横浜トリエンナーレ2005〉でも、同様の印象があった。総合ディレクター・川俣正が掲げた「アートサーカス[日常からの跳躍]」なるテーマの下に試みられたのは、現代芸術を通した未知なる出会の刺激や躍動感が、日常に感性を刺激し、現実社会の見方、生き方を変えうるという、まさに懐かしき“前衛”の理想だ。しかし、現実に会場に漂う空気や観客の反応は、現代美術を体感し、それと一体化した刺激や躍動ではなく、どこか懐かしく、微笑ましい雰囲気に一時浸るというものだった。

 昨今の“現代美術”というものは、現代社会の未知なる世界の先端を切って突き進み、人々を刺激するのではなく、先の見えない不安感、焦燥感を、“芸術”なる仮想世界のなかに迎え入れ、一時の癒しと安心感を与えるものに成熟(?)したと言えるのだろうか。
  


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