web展評
new05.11.15
 web展評 目次


横浜トリエンナーレ2005
〜アートサーカス[日常からの跳躍]〜


“鑑賞”から“体験”への跳躍はできるのか?


文●松浦良介 
Ryosuke Matsuura 『てんぴょう』編集長



2005年9月28日〜12月18日

横浜市山下ふ頭3号・4号上屋ほか
問い合わせハローダイヤル03−5777−8600

HP  http://www.yokohama2005.jp


●開催までに続いた波乱

 第1回目が2001年だったので、本来ならば昨年(2004年)開催だったはずだが、1年延期。しかも、第2回目の総合ディレクターに就任していた建築家・磯崎新氏が、昨年12月に辞任という波乱の続いた横浜トリエンナーレ。
 磯崎氏辞任後、新たに同職に就任したのは美術家・川俣正氏。早速に川俣氏は、キュレーターに天野太郎(横浜美術館学芸員)・芹沢高志(P3 and enviroment)・山野慎吾(ギャラリーアートリエ)の三氏を選出。
 こんな短い準備期間で、本当に開催できるのか? と多くの人が疑いを持つ中、横浜トリエンナーレ 2005はスタートを切った。この急展開に関して山野氏は、「まったく時間がなかった、しかしとにかく走った」(『横浜トリエンナーレ 2005』カタログ、以下引用は同じ)と述べ、また天野氏も「川俣氏やほかの二人のキュレーターの選定した作家との有機的な関係性を保つ時間的な余裕がなかった」と述べている。

●川俣氏独自の国際展のための5つのテーマ
  川俣氏は本展の位置づけを、「ポリティカルでシステム論的な動向の改変を大前提に展覧会を組み立てて行くことをあえて拒否し、アートそのもののもつ根源的な喚起力を、どうすれば見る側、参加する側(観客)に受け止めてもらうことができるか、この設定にこだわりたいと思う」と、他に多数ある国際展とは違うものにしようとした。
 国際展は一見有名な美術家がたくさん集まる単なる賑やかなお祭りのように思えるが、実は政治色が強かったり、観光資源の重要なファクターであったりなどなど良くも悪くもその内側は現実的で生臭い。
 では、川俣氏はそういったものとは距離を置いて、どこへ向かおうとしたのか? まずはアートの機能・力を「日常生活の中で、ともすると見失われている感性の広がりや価値感の揺さぶり」にあるとし、その為に「ダイアローグ的な展示や鑑賞」を目指した。
 そしてサブタイトルを“アートサーカス[日常からの跳躍]”とした。具体的には、5つのテーマに分かれる。
 一つ目は、「開かれた作品」。これは、「観客を放っておくのではなく、観客がもっと具体的に作品の中に入り込み、さまざまな体験の中で作品を総合的に理解するような」作品を指す。
二つ目は、「参加する」。「観客がいつのまにか作品の中に参加している自分を体感し、そしてそこに身を任せる」というもの。
 三つ目は、「人とかかわる」。「作品鑑賞から作品体験」ということへ導く為に「見る側が実作の場を垣間見る」ことを行う。これは美術館でも多く行われるワークショップなどで盛んに行われているのと、同じようなものであろう。同展会期中も、もちろん多くのワークショップが開催されている。
 四つ目は、「場にかかわる」。今回の展覧会場となるのは、約12000uの、現在も使われている倉庫。そしてそこは保税地区(外国貨物を関税の徴収を留保の状態で運搬、蔵置等ができる地区)である。このような状況を積極的に受け入れることが、出品作家には求められるという。同時に、単に展覧会場を鑑賞だけの場所でなく、「コミュニケーションの新たな場」と考えることも要求されるという。
 最後の五つ目は「運動態としての展覧会」。今回のトリエンナーレは「つねに何かが行われて」おり「展示作品自体も変化」、つまり「成長する作品」が中心になる。また会期後半には、展示資材を含むもろもろの物品を公開オークションにかける企画や、すべての資料、制作ドキュメントを記録したカタログパートUも企画されているそうだ。
 これら五つのテーマに沿って、川俣氏以下3名のキュレーターで出品作家を選定し、トリエンナーレはその全体像を作っていった。ただし、国際展における美術家の選定は、「早い者勝ちに似た作家争奪戦が繰り広げられているのが現状」(天野)ということなので、準備期間があまりにも短かった今回は難航必至だったと思われる。

●“出来事”が展示される会場
 メインの入口までは、防波堤を数百メートル歩いて行く。入口に向かって左手に海、そしてその向こうに観覧車や赤レンガ倉庫など横浜らしい風景。右側には倉庫が並びそれだけを見ていると、すくなくともこれから美術の展覧会に行くのだ、という雰囲気を感じる人は少ないだろう。
頭上にはダニエル・ビュランの紅白のストライプ模様の小さな旗が無数に海風にパタパタと音をたててはためく。ビュランは、出品作家の中でも数少ないビッグネーム。どのようになるか期待していたのだが、鉄パイプと金網、そして倉庫の組み合わせにはマッチしなかったようだ。正直、閑散とした商店街の装飾にも思えてしまった。
    
青空であったらもっと映えたであろうビュラン作品。
 ビュランの旗の下を通り抜けると、青く塗られた大きなコンテナに、“横浜トリエンナーレ2005”の文字。これも右手に見てきた倉庫の風景と同じで豪華絢爛、といったものではないが、前述したテーマを思えばこの簡素な出迎えも納得か。
 会場に入ると、展示は各出品作品をブースで仕切り個々に見せるものでなく、作品同士の明確な境目はない。観客への導線もない。会場を見渡せば、“絵画・彫刻”と呼べる作品は皆無といってよい。近年主流の映像作品は案外少なかったが、日常品を素材にしていたり、ほぼゲームと呼んでいいものもあったりなど、既存の美術作品とはかけ離れたものばかりだ。これも前述したテーマを思えば当然だろうし、むしろ川俣氏の意志が隅々まで行き渡った空間と呼んだほうがいいかもしれない。ただ、美術館での“鑑賞”に慣れきっている人は、戸惑うかもしれないが。

仕切りもないが、キャプションのプレートも控えめであった。
  ただし、この展示は雑然・漫然といったものと紙一重であることも確かだ。壁もきれいには修繕していないなど、倉庫の存在感をそのままにしてあるので、そこに飲み込まれてしまっている作品も多い。事前に観客がかなりの目的意識、もしくは予備知識をもって見なければ、ほとんどの作品をちらっと見て通り過ぎるだけになってしまう可能性も大きい。
 だが別の見方をし、作品という“鑑賞物”が展示されているととらえずに、体験すべき“出来事”が展示されているとすると、様相は違って見えてくる。なぜなら出来事は鑑賞されるものでなくて、体験され、それを頭で理解するものである。だから素材やマチエールなどといった視覚的要素は、作品の前に立ちじっくり見るという鑑賞よりもさして重要ではない。体験した者が、頭の中でどのように理解、解釈するかが重要なのだ。
もちろんこれには、個々の作品に対する充分な解説が必要。さらに全ての人が体験できるわけでもないし、体験を強要できるわけでもない。体験を促すような仕掛けも必要。今回は、あまりそのような準備はできたなかったようにみえた。
  そんな中で、部屋などを作って中に観客が入るようする作品は、比較的受け入れられ易い。部屋に入るという体験と、その中の作品を鑑賞するというバランスが安心感を与える。その代表は奈良美智+graf(grafは“暮らしのための構造”を考えてものづくりをするユニット)の作品。二階建ての中には、一階に奈良作品、二階に奈良作品に登場する“子供のような人”の無数の“似顔絵”。それぞれの室内も壁や床の色調が良く、美術館で見るよりずっと身近に奈良作品を感じることができる。
  
奈良美智+grafの作品。木の床に水色の壁の1階を昇ると、がらりと雰囲気は賑やかなものに。
 
黒田晃弘の似顔絵のコーナー
 また「参加する」という点では、似顔絵描きを行う黒田晃弘がシンプルで面白い。観客は、コンセプトやテーマなどといったことを考慮することもなく、ただ椅子に座り黒田に描いてもらえばいいのである。デッサン段階で終了となるので、時間的拘束もそんなにないだろう。後はでき上がった作品を、楽しめばよい。このようなシンプルな手法の作品が、もっと多くてもいいと思った。
                                                                 他には倉庫外にある作品で注目できたものが3点。ジュースの瓶などを入れるプラスチックケース
ヴォルフガング・ヴィンター&ベルトホルト・ホルベルトの作品
の黄色が、すすけたコンクリートの倉庫と対象的なヴォルフガング・ヴィンター&ベルトホルト・ホルベルトの作品。一見プラスチックケースでできているので無愛想だが、階段を昇ってその“黄色の光の中”に入ると奇妙な浮遊感があり、そこから見える海がより印象強くなる。
 
 2点目は、岩井成昭の『million mama』。この作品は、サークル状にいくつか並んでいる電話ボックスの中に入り、鳴っている受話専用の電話の受話器をとるだけでいい。すると“母の声”が聞こえてくる。電話ボックスという小さな部屋の中で“母の声”を聞くことは、聞く人間の状況にもよるが、けっこう感情を揺さぶるのではないだろうか。これもまた、シンプルな形で、作品に参加できるのがよい。


 3点目は、岩井作品の傍にあるが気づかれにくいマーリア・ヴィルッカラの『だからどうした――縞馬がアートフェスティバルへ行く』。なぜ気づかれにくいかというと、この作品は倉庫と倉庫の間を繋ぐようにあり、しかも頭上にあるからだ。さらに、その作品自体は、小さな動物のフィギュアが綱渡りをしているもので、小さなスケールのものだ。多くの作品が、床に置かれるものがほとんどだったので、ぽかんと一つ浮いて“我関せず”のような存在感が、ユニークなものだった。


岩井成昭『million mama』

マーリア・ヴィルッカラ『だからどうした――縞馬がアートフェスティバルへ行く』


●新しい美術像の提示となりえるか?
 視点を変えて、今回のトリエンナーレの全体像について考えてみたい。
 冒頭でまとめた5つのテーマをよく考えてみると、まさに川俣氏の今までの制作活動に通じるものがある。完成をもって作品とするのでなく、未完成のまま観客に提示し、会期中に変化させていく、むしろその変化していくことに重点を置くなど。
 となると、これは川俣氏の大きな個展とも思えてくる。会場に規則性なく展示された作品群も、その素材の一つ。政治性などの生臭さはまったくないが、川俣氏の美術に対する考えが、非常に強く具現化されているのだ。
 国際展の成否の判断をするのに、総合ディレクターのコンセプトやテーマがきちんと行き渡っているか? というのがあるが、その点では今回は成功といえよう。
 あとは観客がどのように体験、参加していくことができるかである。サブタイトルの“アートサーカス”という言葉は、どこか新たな現代美術像を思わせる。しかし“出来事”をしっかりと体験するには、実は制作コンセプトなどを充分に理解しないとならないので、現代美術というものへの敷居はより高くなったのではないだろうか、という不安も拭いきれないのも確かである。

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