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new200511.7
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第17回高松宮殿下記念世界文化賞
――ロバート・ライマン(絵画部門受賞者)の会見から

前途不明、しかし終わりはない芸術


文●藤田一人 Kazuhito Fujita 美術ジャーナリスト

 ●定着した形と時代の変化
 1988年に創設、翌年に最初の授賞を発表して以来、今年で17回目を迎えた、財団法人日本美術協会主催の高松宮殿下記念世界文化賞。フジサンケイグループの全面的なバックアップのもと、“芸術のノーベル賞”なる意気込みで展開されてきた同賞だが、近年になってようやくその形が見え出してきたと同時に、時代の変化というものを反映するようにもなってきた。

 今回の受賞者は、絵画部門がロバート・ライマン(アメリカ)、彫刻部門が三宅一生(日本)、建築部門が谷口吉生(日本)、また音楽部門ではピアニストのマルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン)、そして演劇・映像部門では現代舞踏のマース・カニングハム(アメリカ)の各氏。さらに、1997年から始まった若手芸術家奨励制度は、群馬県草津温泉の国際音楽祭に際して続けられている、草津夏期国際音楽アカデミーが選ばれた。

 まず、時代的な変化という意味では、芸術領域の拡大と枠組みの見直しということだろう。それを印象づけるのは、言うまでもなく、ファッション・デザイナー、三宅一生の彫刻部門での受賞だ。三宅はこれまでも候補に挙がっていたが、ジャンルの問題で授賞が見送られてきたという。今回の授賞は、三宅の展覧会を舞台にした制作活動を、布を用いたインスタレーションと解釈したものだろう。が、やはり少々無理があることは否めない。それにも増して、絵画の領域に進出する写真、コンピュータ技術を駆使したニューメディアの浸透など、芸術を支え、取り巻く状況、技術が刻々と進展するなかで、旧来の価値観では捉えきれなくなっているのは疑いの無いこと。そういう意味では、今後の授賞対象、部門領域の再検討が求められてしかるべきだろう。

 一方、見え出してきた世界文化賞の形、方向性は、芸術的活動の舞台が国際的であるということだろう。所謂、国民的芸術家というような、個々の国民性、民族性に根差し、それを背負った大家という印象はなく、分野の違いなくグローバル化が進む、現代アートシーンのスターが名を連ねる。それは時代の潮流である一方、文化的に大きな何かの喪失を孕んでもいる。今回の絵画部門の受賞者、ロバート・ライマンの会見からも、そんな現代芸術の一端が垣間見えた。

ロバート・ライマン氏(右)と三宅一生氏(左)

●WHAT?ではなくHOW?

 ロバート・ライアンは、1930年アメリカ・テネシー州ナッシュビルに生まれる。1952年ジャズ・ミュージシャンを志してニューヨークに。生活のために就いたニューヨーク近代美術館の警備の仕事かきっかけとなり、画家への道を歩むことになったという。早い時期から様々な筆致を駆使した白一色のペインティングを展開。それが1960年代に入って、ミニマリズムの台頭とともに、絵画の基本としての表面、平面性を問い直す画家として注目を集めた。その後、様々な企画展に参加するほか、72年のグッゲンハイム美術館をはじめ、世界各国の美術館で回顧展が開催されている。日本でも2004年に千葉県の川村記念美術館で開催された。

 そんなライマンが繰り返し主張するのは、「自分自身の絵画の問題は、WHAT?ではなく、絶えずHOW?なのだ」ということだ。

  「私の絵画は、意味を問わない。純粋な視覚メディアです。例えば、私はキャンバスに白い絵具を塗る。もちろん、さまざまなタッチを駆使して白という色をコントロールする。そうしながら、私はある意味“光”というものを扱っていると感じることがあります。しかし、それはイリュージョンとしての“光”を描いているのではない。まさに本当の“光”を体現しているということ。つまり、私にとっての絵画とは、自分の中にあるイメージを表現したり、メッセージを発するのではなく、一筆一筆の軌跡が生み出す未知の世界、ミステリーと言えるのかも知れません」

 それは、絵画というものの自律性と普遍性の探求であり、典型的なフォーマリストということになるのだろう。ただ、昨今の現状を鑑みると、この世界の“普遍性”なるものに懐疑的にならざるを得ないことが多々ある。特に、グローバリズムなる潮流が世界を覆いつくさんばかりのなかで、ナショナルとインターナショナル、国民・民族性と国際性というものの分裂が顕著になってきている。しかし、それらは本来表裏一体の関係にあるもので、さまざまなナショナルの積み重ねによってインターナショナルに至る。そういった前者と後者の幸福なる一致こそが、今こそ求められているのではないか。そして、芸術なるものに、人々は社会の体勢に対する問題提起を期待する。そんな問いに対して、ライマンはこう答えた。

 「絵画を通して、そういうメッセージを表現する画家もいます。しかし、私にはそうした問題は全くと言っていいほど関わりがない。繰り返しになりますが、私の絵画は、現状に対するナラティブ(物語)でもなければ、ステイトメント(声明)でもないわけです」

 加えて、彼は自身の“芸術家”なるもののあり様をこう語った。

 「若い頃、音楽を習った先生が、こんなことを言われたことを思い出します。世の中には、“エンターテナー”と“芸術家”がいる。“エンターテナー”とは、聴衆と向き合って、彼らの求めるものを考え、それを表現して提供する。それに対して、“芸術家”は、自分が表現しなければならないことを表現する。聴衆はそれを受け入れるか、拒否するか、だと」

 そして、いうまでもなく、彼は芸術家なのだ。

 そうした一種の芸術至上主義というべきものが、ロバート・ライマンの芸術世界を育んできたことは確かだし、今日の現代美術を支えてきたこともまた確かだろう。また、それが普遍性や国際性というものにも繋がっていく。ただ、そこから零れ落ちるものは余りにも多いことを、芸術家をはじめ芸術に関わる者は心に留めておかなければならないのだろうが・・・・・・。

 とは言うものの、ライマンは決して頑固なフォーマリストでもないようだ。彼は、古今東西あらゆる絵画を独自の見方で受け入れ、理解しようとする。

 「これから絵画がどういう方向に向かうかは分かりませんが、決して絵画に終わりはない。画家というのは、例え同じ風景を何度描いたとしても、同じものは一枚もない。絶えず新しい作品であり、挑戦ですから」
画家とは、その時その時、絶えず画面上で新たな世界に挑戦すること。これだけは、絵画が芸術として未来への可能性を繋げる方法であることは間違いない。



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