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〈原 高史 Signs of Memory 2004 Projekt Auguststrasse〉

街の歴史を甦らせる“ピンクの窓”
文●和田真帆
Maho Wada アートライター

(投稿)
■2月12日〜16日
ドイツ・ベルリンミッテ区アウグスト通り






























































 ドイツの首都ベルリン。アートの中心ミッテ地区に位置するギャラリーが多く集まるAugutststrasse(アウグスト通り)。この通りの建物の窓が2月12日から5日間ピンクのパネルで埋められた。その数300枚以上。日本人アーティスト原 高史がアートディレクターとなり、住民を巻き込んでのアートプロジェク〈Signs of Memory 2004 "Projekt Auguststrasse in Berlin〉が開催されたのだ。
ピンクのパネルがベルリンの厳しい冬の街並に明るいさし色となり、道行く人々の目に飛び込む。そのピンクのパネルから様々な言葉が発せられ、その存在をアピールする。

 ――“私は36年からこのアウグスト通りに住んでいる。1936年はベルリンオリンピックがあった。”
 ――“この家?今とは全く違ったわ。ここは占拠されていた。ここには若い人たちだけが住んでいたの。そう、その頃私達は、皆は、だいたい18歳から22歳だった。”
 ――“私は不思議なことに壁が崩壊する前、一度も閉じ込められていると感じたことはなかった。”
 ――“そしてその後、9月11日がやって来た。私の親友たちは皆その後6か月以内にニューヨークを去っていった。それから彼等はそれまでの人生とは全く違うことを始めたの。”
 ――“私はいつも模索中だ。今までずっと探していた。そして今私が必要とするものはだいたい見つけた。”

 これらはこの通りのピンクの窓から発せられた言葉だ。パネルは言葉と絵からなる。原はこの通りの住民と、この通りに関わる人々をインタビューし、特徴ある言葉や印象に残った言葉を選び出した。そしてその言葉と、その言葉から原がイメージした絵を住民と共同でパネルに描き、それらをそれぞれの窓に設置したのだ。今回、原と共にプロジェクト進行、運営に関わってきた私は、またドイツ語の通訳として9月から60件以上のインタビューに同行した。1936年のベルリンオリンピックの年からこの通りに住む96歳の老婦人、ニューヨークとベルリンの空気は似ていると言ったアメリカ人ジャーナリスト、コンタクトをとって取材までの間に子供が生まれた家族、四代続くダンスホールを経営する人など、実に様々な人々がこの通りに暮らし、この通りに様々な関わり方をしている。インタビューを通して、それらの人々から発せられた言葉から、その人それぞれの歴史を垣間見ることが出来、また通り、街、時代の移り変わりをその個人の歴史から聞くことができた。

 ――“だからそれは、忘れられていなかったということ。30年、40年忘れられていたけど、ずっと、永遠にではない。家(建物)は人間より普通は長く生きるから。”

 これは旧東ドイツ時代この通りにあった高等学校に通っていた小説家の言葉だ。
 今は空家となっているこの旧高等学校は、その昔ユダヤ人女学校、ユダヤ孤児院でもあった。ナチスの時代、ユダヤ人を含む多くの人々が、そこから強制収容所へと送り込まれた歴史を持つ。しかし大戦後の社会主義国時代、それまでの歴史を全く封印されて高等学校として存在していたのだ。しかし時代が移り歴史は再び明らかになる。
現在イスラエルは不安定な情勢が続いている。その影響を受け、ここベルリン・アウグスト通り一帯に広がるシナゴーグ(ユダヤ教教会堂)を含むユダヤ教教区所有の建物の警備も、ここ数年一層厳しくなっている。そういった中で、今回ベルリン・ユダヤ教教区の理解を得て、十年来空家となる2軒の建物の使用許可が下りた。
 旧ユダヤ孤児院の院長を曾伯母に持ち、ドキュメンタリー映画を制作中のイスラエル人映画監督、また自分の通っていた高等学校の建物の歴史に興味を持ち、その“過去”を20年の歳月をかけ丹念に調べ一冊の本を書き上げた小説家の言葉を、この2軒の建物の窓から発することが出来たことで、このプロジェクトの意義も大きく進展した。
 今回プロジェクトの対象となったアウグスト通りを含むこの周辺は、歴史の変動が激しいベルリンの中で、その過去の痕跡が多く残るところだ。住居、職場として現在“使用中”の建物の窓からだけではなく、何年も使用されていない、これから先の用途、未来も未定な現在“不在”となっているこれらの建物の窓からも言葉を発することで場を活性化し、その歴史、痕跡が顕在化された。人々が現在活動しているところだけではなく、“していた”ということも含めての通りの歴史であり、現在があるからだ。
ベルリンは周知のように15年ほど前まで東西ドイツ分断の象徴であった壁が存在していた街だ。このアウグスト通りは旧東地区に位置する。第二次世界大戦前はユダヤ人が多く住み、ユダヤ教教区の施設などが固まって立ち並ぶ通りでもあった。その後の社会主義国時代には政府に置き去りにされ、壁崩壊後も荒れ果てた廃墟、所有権が明確ではない空家などで溢れかえっていた。
 この廃墟や空家をアーティスト達が占拠したり、タダ同然の好条件で借りることが出来た。動いているベルリン、発展途上のベルリンに可能性を求めた若いエネルギーが、またそれと平行して旧西ドイツや海外の実力あるギャラリーがこのアウグスト通り、ベルリン・ミッテに集まってきたのだ。

 ――“家が修復され、昔から住む人々の多くがこの通りを去っていった、特に老人が。”
 ――“この通りに住む人の層が変わった。”

 今回インタビューでも多くの人から聞かれた言葉だ。街は変容を続けていく、それは仕方のないことだ。歴史は流れていくのだ。

 一時期の建築、改装ラッシュも去り、ツーリストも好んでくるような、カフェ、レストラン、ギャラリー、ショップなどが並ぶアウグスト通りの現在の顔も、歴史の上ではほんの一瞬のことなのかも知れない。現在この通りはドイツ国内外でも“ギャラリーの集まる文化的通り”として浸透している。しかしそれはここほんの7、8年のことだ。ここがかつてユダヤ人が多く住む通りであったことをどれだけの人間が知っているのだろうか?ここがつい14、5年前までは人々が移り住みたくもないような、取り残された地区であったと今だれが想像するであろうか? 前記の小説家の言葉ではないが、建物の歴史は永遠には忘れ去られないのかもしれない。しかし、人々の記憶から消えてしまうもの、またその過去すら一般には知られていないものがあるという現実も、このプロジェクトを通し浮かび上がってきた。だからこそ伝えていく必要があるのだ。
 原は過疎化の進む新潟県の浦川原村で2001年、2002年と2年続けてこの窓プロジェクトを住民と共に行ってきた。村の学校が廃校になるなど、ここ数年明るい話題のなかった村で、アーティストと村人一体となり達成感を味わうことが出来たという。歴史の流れと共に記憶から失われていくものもたくさんある。地域の特徴、現状を見つめる上で、そこに至るまでの歴史の流れを、個人個人が発した言葉から、個人が経験した歴史を通すことで見えてきたのだ。
 今回は、前回と場所も、状況も文化も全く違う場所で同じかたちでのプロジェクトである。しかし伝えていくものがある、伝えていく歴史があるという点では一致している。個人が経験した歴史を、その人の言葉で伝えることが何よりも強い力を持つ、そして一度パネルに描くことで製作する側にも、見る人にもそこで一つクッションができる。パネルに書き出された言葉は、インタビューから抜粋した沢山の印象深い言葉の中のほんの一部分だ。短く印象的な言葉を選んでいるため、このプロジェクトにおいては“言葉が絵のようで、絵が説明的な役割を担う”と原は言う。短い文章だからこそ、その背後にあるコンテクストを見る側個人個人の想像に委ねている。言い換えれば見る側に何か感じ取ってもらいたい、というメッセージを込めた“きっかけ”にしかすぎないかもしれない。
 アウグスト通り界隈のアートシーンも実験的なアートが影を潜め、すっかり商業ベースになって久しい。“アートと水と油の関係”にあると原が指摘する、普段はアートの通りの背後に隠れている住民の言葉が一斉に窓から発せられることで、過去、未来を含めた“現在、現状のアウグスト通り”を浮かびあげていこうとした試みは “プロジェクトは商業ベースでは出来ない”と言う原の挑発であるのかもしれない。
 この通りに長く住む住民は“ここのアートシーンは突然やってきた”と言う。そして“それはまたいつかどこかに移る時がくるだろう”とも。
 時代の波に乗りこの通りで生活する人も、また一方では取り残され、しかしその中でまた自分なりの解決を見つけ生きる人等、様々である。しかしこのプロジェクトに参加した人々は、ほぼ全員が今の自分の位置を明確に認識し、前向きに生きていることに驚きと感銘を覚えた。
 第3回ベルリンビエンナーレの開催が同時期に行われたこともあり、今回このプロジェクトは多くの人々の目に触れることが出来た。通りに立ち止まり、熱心に一枚一枚のパネルを読む人々の姿が沢山見られた。そして多くの賛同を得ることが出来た。新聞、雑誌、ラジオにも数多く取り上げられ、ドイツで最も評価の高いとされる新聞 Die Zeitの文化欄の一面を使って、このプロジェクトがとても好意的に批評された。
 5日間とはいえ、部屋の中が暗くなることを承知の上で、参加した人の過半数が通りに面する窓を全て提供し、多くの人が何日も作業場に足を運んで一緒に制作に励んでくれたこと、“隣近所との付き合いもほとんど無かったけど、これをきっかけにほかの住民と話すようになった”、“この通りにもっと興味を持つようになった”、“こんなふうに自分も参加して一緒に作って、楽しんだ”と何より参加した住民からの反応がとても良かったことは携わった側として嬉しいことだ。そしてこのプロジェクト開催を観て、“是非私の国でやって欲しい”、“私の街で出来たらいい”と、また違った条件、文化、環境からの依頼が来ている。新潟の村からドイツの首都へと繋がったプロジェクトをその先に延ばし、継続的に続け、その先を見ていきたいという思いが湧いてきた。

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