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〈VOCA展2004〉
〈第13回青木繁記念大賞公募展〉
〈第22回上野の森美術館大賞展〉
                            
3つの絵画展にみる現代と美術の距離〜

文●松浦良介 Ryosuke Mtsuura
『てんぴょう』編集長

第13回青木繁記念大賞公募展

VOCA展2004
「現代美術の展望ー新しい平面の作家たち」

第22回上野の森美術館大賞展


  ある程度の幅の年齢層で、日本各地、場合によっては世界各地から作品が集まる公募展やそれに似たような展覧会というのは、美術家たちの無意識が集合するように思える。特に、直接的な表現が減って、見映えのいい個展が増える中で、いい意味で雑多なこの雰囲気は貴重とも言えよう。

 しかし雑多であるが故に、観る側が漫然としていると、何も観なかったような錯覚に陥る。テーマ展のキュレーションや個展における美術家の“センス”といったものが強調される展示に慣れてしまっているからだろう。だから観る側には、どんな視点で観るかが必要とされる。
上田風子「晴れやかなる日々T」


 3、4月に3つのそんな展覧会があった。 それは〈VOCA展2004〉・〈第13回青木繁記念大賞公募展〉・〈第22回上野の森美術館大賞展〉。

 私としては、ここ数年時代へ眼を向けてきた美術の動きを見たいと思った。ニューヨークへのテロ以来、とかく現代は騒がしい。しかし、テロや戦争、そして異常な犯罪はどの時代にでもあったことだ。では、なぜ騒がしいと思うのか。それはそのような出来事を伝えるメディアの発達だ。交通網・情報網は世界中に。どんな地域の事でも、文章と写真は当然だが、さらにCG、アニメーション、効果音などなどで、視覚・聴覚にこれでもかと不幸を流し込んでくる。そんな日常なのだから、映像作品やもしくは映像という表現手段に影響を受けた作品が増えるのも当然なのであろう。しかし、それだけ時代の影響を受けながらも、なぜかその作品からは、そういった自覚や意識が感じられないことが多い。なぜなのか? 事実と真実は違う、というがそうなのであろうか。
中山ダイスケ「シャンデリア」


 まず各々について。36人の美術家が推薦出品した〈VOCA展2004〉は、回数を重ねるごとに言いようのない“静けさ”が漂うのだが、今回も同様。これはマンネリに陥りつつあるといってもいい。しかし高階秀爾氏は選評において、確かに行儀の良い作品が多いが、どれも確かな技術力に支えられており、そのことを10年の実績の表れ、と肯定的に捉えていた。

 この“静けさ”とは、“不在”とか“静謐”、“不気味”などと意味ありげには言いかえられない。ただ何もない、ほんとに何もないから“静けさ”と書いてしまうのである。しかし、その中で、いやその中だからこそなのかもしれないが、今までは洗練された作品のイメージが強かった中山ダイスケの変化や、冷めた喧騒を感じさせる上田風子の作品、そして、普段の生活に感じている違和感を上手に作品に持ち込んだ新盛清一の作品に注目した。いずれも自分が生きている日々の中のノイズを、同時代に提示するという意識が感じられる。

 600作家、約900点の応募があった〈第13回青木繁記念大賞公募展〉は、受賞・入選作品展が福岡・東京・福島を巡回することもあって、前回から応募者が3割増しとのこと。広報の力の賜物。

 数の増加は、応募作品内容にも影響は当然出て、“座談会 審査を終えて”において富山秀男氏は「常連の人の作品も随分私は気になったところですけれども、どちらかというと、新人というものに気がひかれる」と述べている。

 確かに今回は、受賞作品も含めて、すこし様変わりしたようである。これは単純に“現代美術よりになった”とみるより、映像・写真表現などメディアの変化に敏感になってきた、ということだろう。この賞には、公募団体展に出品してる画家も多く応募してくるのだが、現在の公募団体は、別にそこの特徴である作風を継承しなくてもいい雰囲気もあるので、それも一因かもしれない。しかし単に技法の変化に敏感であっては、技術力のみしか問われない。評価されても、「器用だな」、で終ってしまう。優秀賞の吉富ひろみの作品は、クールな映像的感覚の中に、タイトル「冬日B」とあるように、確かな季節感を感じさせたのが、目立っていた。

 最後に956作家、約1500点の応募があった〈第22回上野の森美術館大賞展〉。この公募展は、審査員が画家で、公募団体展の重責を担っている人もいることもあって、応募者の多くは公募団体展に発表している。

 実際、展観される作品群は応募者が審査員を意識してなのかもしれないが、自分が属する団体の特色を濃くだすものも多い。こんなことを書くと「だから団体展はつまらないし、良くないのだ」という声も聞こえてきそうだが、むしろ私は公募団体の力と存在の大きさを改めて感じた。美術という存在を成り立たせる大多数の力としての存在である。最先端の華々しさはないが、この土台とも言うべき存在がなくなったら最先端も地に落ちるしかないのである。
吉富ひろみ「冬日B」

 今回の受賞作は、前回と違いオーソドックスなものが多かった。それは構わないのだが、気になったのは、なぜこんなに外国の風景ばかりがモチーフとなるのであろうか。なぜその国なのか、という動機が伝わってこないのが残念。他の多くの作品も、その団体内では評価されるのだろうが、そこを越えた社会や時代では「?」というものであった。美術を支える意味で団体というのは重要だが、やはり長年続くと組織というものは、会社と同じで多くの問題を抱えてしまう。いずれにせよ、個々にどの作品が、というより、集団としての力が凄かった。

 ところで、今回触れた3つの展覧会以外でも、今の時代を描きたいのだろうな、と思わせる作品も見られることが多くなった。ただその多くは余りにも説明的で、絵解きを強要させられるというか、だらだらとした文章を読んでいるようで、まずは視覚に訴える美術としては魅力がないものが多い。

 もしくは、技術のみが突出していて、その技術で何を表現したかったのかが見えてこない。これは技術の変化には敏感に反応している証である。しかし時代を意識するということが、そのことだけで終っているのだ。これには美術教育が大学までも含めて、技術教育に偏っていることもあるのだろう。

 過去に美術家は時代を意識して、戦争を描いたり、学生運動や環境保護などに参加したりしてきている。それは、時代に巻き込まれて、己を見失ったと言ってもいいのかもしれない。そのような方法でなくても、自分が生きている時代を意識して制作・発表するだけでも、美術家という存在を社会に位置づけることができると思うのだ。時代に寄り添うでもなく、衝突するでもなく、存在を確立させることが重要なのである。



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