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ベールト・オシンガ




〜極めて個人的なポルノグラフィー


文● 成田 華代 Kayo Narita 
一橋大学大学院修士課程 (投稿)
場所:  GALERIE PETIT
N. Z. Voorburgwal 270,
1012 RS, Amsterdam,
The Netherlands
www.galeriepetit.nl

期間:  2004年4月3日-28日
出品者:
Paul Gorter, Toine Moerbeek,
Bert Osinga, Joanna Quispel,
Wendelien Schonfeld, and
Kris Spinhoven.
 「ポルノグラフィー」は彼にとっての褒め言葉だ。ベールト・オシンガの描くヌードは、性的で、猥褻で、男が女にむける欲望の眼差しをあからさまに映しだしている。「ヌード絵画とは、理性によって追求された崇高な美であり、俗的な性欲とは掛け離れたものである」などと、近代美学における常套句をベールトの口から聞くことはない。「男が女を描くのは本能だ。女の裸体を描きたいと思う、それは猫が小鳥を捕まえるようなものでコントロールのしようがない」美的欲求は性的欲求と分かちがたく結びつき、芸術家としての表現欲が生じる。女性の肌を、髪を、表情を、荒々しい筆致で犯すように描き続けるベールトのヌードには、「生臭さ」が漂っている。人間の本能や性、セックスの現実を見据えた画家によって描写されるその「生臭い」ヌードは、「崇高」という言葉で虚飾されるお行儀のよい純粋芸術でもなければ、複製技術により安価に大量生産・消費されるピンナップポルノにも程遠い。「ポルノグラフィー芸術」、一見したところ違和感のある組み合わせ、しかしながら身体と精神の全てをかければこそ成される表現が、ベールトの作品では実現されているのである。

 アムステルダムの中心街、ダムスクエア裏手のフォアブルグウァルにあるGALERIE PETITで、3週間にわたり開催されたグループ展にも、その「猥褻な」作品たちが並べられた。乳房、性器、セックス、コスチューム・・・ 「崇高な」高級芸術においてはタブー視されがちな対象が、次々に鑑賞者の目に焼きつけられる。男に目配せするようなヌードモデルの視線、そして画面を覗きこむような感覚に陥らせる効果的な構図が見る者の目を誘いこみ、激しいコントラストと筆致によって描く者の欲望が演出される。玩具のような性の風景が鏤められた『乗馬(PaardrijdenHet)』[図1] や『美しき髑髏(mooie doodschoofd)』[図2]は、ひとめでベールトのアトリエだと分かった。かつてインタビューのために訪れた彼のアトリエには、ぬいぐるみやコラージュ作品、ヌードモデルを模ったオブジェやエナメルの靴など、エロスを盛り上げるための「小道具」が溢れていたからだ。アトリエのあちらこちらに収集され、構成された欲情の風景を、さらに自分のものにするために絵筆を取る、そこには心に触れたものを描かずにはいられない画家の衝動を読みとることができる。

 男性の欲望を満たすための「猥褻な」ヌード絵画は、近代美学において「崇高」と賞賛され正統化されてきた、そうしたフェミニズムの視点が美術批評にもたらされたのは60年代後半のことである。リンダ・ノックリンによる『なぜ女性の大芸術家はいなかったのか』の執筆、展覧会開催を皮切りとして、女性芸術家の発掘・記録が始められ、近代美学や美術史、美術批評における男性中心主義が批判されはじめた。フェミニストの矛先は絵画の主題にもおよび、性の弱者や誘惑者としての女性を描くヌード絵画は、男性のためのポルノグラフィーだとして糾弾された。裸にされ、男たちの思うままに変形・構成・枠取りされてきた女たちの虚像を崩すべく、ジュディ・シカゴ、キャロリー・シュニーマン、シンディ・シャーマンといった女性たちがフェミニスト・アートを展開するのは、70年代以降のことである。

 「コンセプチュアル・アートにはうんざりだ」しかしベールトは、女たちのヌード批判やフェミニスト・アートをも超克する視点を提示する。「もちろん、性欲を隠蔽した近代の美学には賛成できない。けれどそれを暴くことに躍起になって、近代絵画のアプロプリエイションばかりを繰り返すようなフェミニスト・アートにも感心できない」ベールトが優先するものは、あくまでも視覚芸術としての絵画作品であり、言説性重視の「物言い」的作品ではない。歴史的・文化的背景、また政治的・社会的コンテクストまでをも含めた作品解釈を提言するイコノロジーを跳ね返すように、絵画の自律性、一回性を主張するベールト。極めて個人的な性欲をも包み隠さず肯定する彼は、フェミニストによる議論などどこ吹く風で言ってのける。「良いモデル?食べてしまいたくなるような女が良いモデルだ」

 コンセプチュアル・アーティストやエキシビショニストに距離を置くベールトのグループ展というだけあって、今回の展示にも、仰々しいタイトルやコンセプトが掲げられることはなかった。参加する6人の作品が淡々と並べられ、わざとらしいシナリオも取ってつけたような解説もなく、一枚一枚の作品がありのままに鑑賞者と対峙していた。強いて共通点をあげるとすれば、トイネ・ムアベークの作品[図4]に漂う「生臭さ」や、展覧会全体に感じ取ることができるアムステルダムの雰囲気、といったところだろうか。しかし、「伝えたいのは、理屈じゃなくて絵そのものだ」というベールトの言葉を思い出し、無理やりに「共通点」や「背景」を探ることを止めてみる。すると、制作年や制作地、作者の出自や文化的背景、あるいはスタイルや〜イズムなど、外的要素を分析し解釈するような鑑賞の仕方では見えてこなかった個々の絵画の本質的な魅力が、次第に目の前に広がり始めた。なんの前置きも鑑賞マニュアルもなく、素裸の目で作品たちを見つめたとき初めて、内的な躍動が心に響きわたる。50点以上もの作品を、そうして丁寧に見て回るうち、「言葉では語りつくせない何か」が心に溢れるのを感じた。「絵に言葉はいらない」、鑑賞の途中、何度もベールトの言葉が思い出された。一枚の絵を、ただ像として虚心坦懐にみつめる態度、そうした絵画鑑賞の原点を、このグループ展に、そしてベールトの作品に見出すことができたと思う。






図1  Bert Osinga,
    Paardrijden









図2  Bert Osinga,
  Het mooie doodshoofd








図3  Bert Osinga,
   De duer






図4  Toine Moerbeek,
    Rubens II


■ ベールト・オシンガ(Bert Osinga)
1953生まれ。アムステルダムを拠点として絵画活動を繰り広げる。


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