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現代美術のポジション2003


吹き抜ける新風
文●石川健次  Kenji Ishikawa 毎日新聞美術記者
2003年 1月7日〜3月30日
名古屋市美術館
名古屋市中区栄2丁目17番25号
電話052−212−0001

 会場内をめぐる私の目に、ふと飛び込んだトリッキーな扉……。壁のほぼ真ん中に、忽然と現れ、見る側をどうぞと誘うふうを装いながら、一方で場違いな雰囲気も。
 たとえば森の中に出現した、あるはずのない扉のよう、とまで言ってしまうとちょっとオーバーだとは思うけれど。
佐藤三恵
 その扉に誘われるように、記憶の中の遠い景色を思い浮かべた。著名なグラフィックデザイナーの福田繁雄さんの自宅を訪ねると、最初はだれもが面食らう。
 訪問客を迎える正面玄関の扉はとても小さくて、おまけにいわゆる“絵に描いた餅”なのだから、だれもそこから入れない。
 トリックアートの傑作と言っていいこの扉のことが、件の扉を前に私の脳裏によみがえった。もっともこちらはトリックアートというわけではないのだが……。
 開けるのをなんとなくためらったまさにその時、扉が勢いよく開いて、中から若いカップルが現れた。
 扉の前にたたずんだのは、ほんの数秒にすぎないと思う。でもその数秒に、私は随分とさまざまな連想を楽しんだ気がする。思えばこのイントロからして、すでに作品の魅力を確約しているようではないか。
 前触れめいた言い様が、いささか長すぎたかもしれない。「東海地方における現代美術の成果を紹介する」ことを目的に掲げたこの展覧会に出品された佐藤三恵の作品について、まず触れてみたいと思う。
 冒頭は、その作品とのファースト・コンタクト、ただしその真価、または全貌と向き合う前の文字通りイントロ体験の様子である。
 肝心なのは、扉の中なのは言うまでもない。入ると、天井から下がるまるで緞帳を思わせる白い垂れ幕の向こうで、壊れかけ、内側にやや開け放たれた窓が風に揺れる。手前に敷かれた絨毯の上にはイスが一つ、所在なげに置かれている=写真。
 風は相当強いらしい。窓をふさぐ白いカーテンが、小刻みに激しく揺れる。風は窓ガラスをたたきつけ、ガラスを割り、部屋の中へ入り込む。
 だが本当に風なのか? 得体の知れないなにかが、風に乗じて侵入しようとしているのではないのか?
 強い風のためだろう、窓枠にからみついたカーテンのせいで外の景色はいっこうにのぞけない。なにかが起こる、まさにその時へ向けて、不気味な風音はまるでカウントダウンを告げるみたいに低く響く。
 だが風はやがて静まる時もこよう。本展カタログに寄せた作家の言葉を、思い浮かべてみる。
 「子供の頃ひとりぼっちで家の中から窓の外をずっと見ていました。風景はとまったまんまで、いつも同じ。でも私の目に見えていたものは遠い遠い未来のまぶしくて美しい世界でした。(中略)もしかしたら未来の私が風に乗ってむかえに来ていたのかもしれません」
 風が刻むカウントダウン、その果てに訪れる“まさにその時”とは、「まぶしくて美しい世界」なのかもしれない。
 だとすれば、私が感じた不気味さ、風音が奏でる不気味さは、むしろそこへ至るための対価、時に過酷な体験を暗示しているようにも思う。
 ミステリアスな演劇仕立ての空間と呼べば、そうだろう。だが多彩な、さらに言えば私が不気味な印象のなかに明るい未来を思い描いたように、錯綜や矛盾さえ呼び起こしかねない豊かなイメージをつむぐ、まさにその多義性、言い換えれば複雑な文脈をそのなかに抱え込む空間の魅力は、並の舞台の域ではない。
 所在なげに置かれたイスの上に、窓ガラスの破片が一つ飛び散っている(置かれている?)。鋭角な光を帯びるその破片に、肌をさす傷みを覚える。これも多義性を演出し、支える仕掛けの一つである。
 ただ一つ残されたイスに、不在の言葉を与えてみるのもいいだろう。ところが一方で“得体の知れないなにか”、あるいは「まぶしくて美しい世界」が、窓の外から迫りつつもある。
 不在と実在、虚と実、多義性をめぐるドラマは文字通り終着地を知らない。
染谷亜里可
 柔らかなベルベットの素材感のなかに、部分的に脱色して描き出したイメージを漂わせる=写真=染谷亜里可は、最近よく目にする新鋭である。
 佐藤と同様、面識はないが、同時期に開催された<おだやかな日々>展(2003年1月11日〜3月23日、東京都現代美術館)でも、『DECOLOR』という共通のタイトルで呼ぶ同様の作品を並べた。
 「ベルベットの質感とそこに浮き上がった模様とが美しい調和を生んでいる」(原沢暁子・本展カタログ)その作品は、「ベルベットという柔らかい奥行きのある素材の感触ともあいまった、その独特な表現から、記憶の底から出てきたような感覚がある」(熊谷伊佐子・<おだやかな日々>展カタログ)。
 両展企画者の文章を、あえて引いた。その作品の魅力と特徴を、端的に言い表していると思うからである。
 ベルベットの海の深みからわき上がるイメージは、その表情が具象的であろうとなかろうと、なるほど海原までの長い道程を泳ぎ抜いた自信に裏打ちされるかのように深く見る側に染み入る。
 壁に並んだ作品の前をゆっくり通り過ぎてみる。斜めから正面、また斜めへと視線が移るにつれ、陽光の変化に応じて多彩な表情を浮かべる海原のように、ベルベットの海原もまた会場を包む光に呼応する。
 そのつど、画面のほぼ中央に描かれた図像は時にベルベットの海に沈み、あるいは時にその全身をさらす。
 10点足らずの出品作に向き合った後、さまざまな起伏に富んだ海原は心地よい余韻に私を導いた。見え隠れした図像の記憶は、その時すでに余韻のなかでかみ砕かれようとしていた。波間にのみ込まれ、消え入る漂流物かなにかのように……。
林繭子 (参考作品)
 林繭子の絵も気になる。前二者と同様、面識はないが、作品に寄せる作家の思いは、「気にかかる事象を絵画によって表現しようとしている」(本展カタログ)ということのようだ。
 一見すると底抜けに明るく、ノーテンキとさえ思える作品が、実は社会を貫く矛盾や疑問の発露ともなっている。
 動物を可愛いと思う反面、動物園のなかに閉じ込められた動物に同情を禁じ得ない。ファッションにも関心が高いのだろう。毛皮を身につけながら、毛皮をはがれた動物を切なくも思う。心のなかに生まれたそうした矛盾や疑問を、のんきな明るさのなかににじませる=写真。
 個々の欲望や思想の表出は、まぎれもなくアートの醍醐味である。切実で等身大の関心や表現、しかしそれらを日常へ投げかけられた作家のまなざしが生み育て、創出してゆくとき、私たち見る側との不幸な断絶も、また過度な造形への依存とも無縁だろう。

(2003.2.26掲載)



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