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『没後50年 内田巌遺作展』

                            
戦後民主主義は幻想だったのか
没後50年 内田巌遺作展―揺れるリアリズム−を開催して
文●藤田一人 Kazuhito Fujita 美術ジャーナリスト



2003年7月15日〜21日
羽黒洞木村東介
        東京都文京区湯島4-6-112F
TEL03-3815-0431〜2

■久々の遺作展

 展評で、自ら企画した展覧会について書くというのも、どうかとは思うのだが……。展覧会を終えた後、様々なことを考え直すことになり、その再検証も一つの展評になるのではないかと思った。なぜなら、展評とは展覧会を通した様々な思考の表明に他ならないからだ。
 と、言うことで、少々時間は経っているが、〈没後50年 内田巌遺作展〉について。
 さる7月15日から21日にかけて、東京・湯島の羽黒洞木村東介で、新制作派協会(現・新制作協会)の創立会員で、戦後は日本美術会の初代書記長として、同会と左翼的社会派リアリズムをリードした、洋画家・内田巌(1900〜53)の没後50年を記念して、小規模な遺作展を企画した。会期は、7月17日、内田巌の命日をはさむことを意図した。
 戦後、日本美術界の一方のリーダーとして主導的役割を果たした内田ではあるが、まとまった遺作展は、没年の1953年の新制作展と翌年の日本美術会の日本アンデパンダン展での遺作の特別陳列以外に、1960年代の南天子画廊で開催された内田が結婚前に妻・静に送った絵入り葉書のラブレターに版画の展覧と、1979年の東京・みずさわ画廊での回顧展以来、まさに24年ぶりとなる。ちなみに、私はかつてそのどれも観てはいない。
 今回の展覧会は、没後50年に際して急遽企画したもので、遺族である未亡人の内田静、次女の堀内路子、三女の内田絢子、巌の妹である吉居恵美子という、四氏の所蔵作品を軸に、いくつかの画廊に声をかけ集めた油絵に、私が所有している色紙や挿絵原画、著作類を並べることになった。

 そうして展示にこぎつけたのが、以下の作品と資料。
[油彩]
1.「宮澤悦子像」(昭和初期 30F キャンバス)、2.「フランス風景」(1932年 6F キャンバス)、3.「薔薇」(1934年 6F キャンバス)、4.「武蔵野風景」(昭和初期 6F 板)、5.「少女と働く男」(1934年 27×21.5cm 板)、6.「武蔵野風景」(1935年 21.5×27cm 板)、7.「子供達」(昭和10年代 10F キャンバス)、8.「妻・しづ子の肖像」(1942年 21×17cm 板)、9.「母の像」(1942年 30F キャンバス)、10.「子供のいる風景」(1944〜45年 8F キャンバス)、11.「風」(1946年 10F キャンバス)、12.「リサコ像」(1947年 30F キャンバス)、13.「頭巾のミチコ(横向きのミチコ)」(1951年頃 12M キャンバス)、14.「風景」(6F キャンバス)

[水彩・素描]
15.「港町」(水彩 27.5×23.5cm)、16.「港と船」(水彩 27.5×23.5cm)、17.「岩場」(1940年頃 鉛筆 25×35cm)、18.「岩場」(1940年頃 色鉛筆 25×35cm)、19.「少女」(墨 28×21.5cm)、20.「花(あざみ)」(鉛筆 30.5×21cm)、21.「人形」(1952年 水彩 33×15cm)、22.「静子像」(鉛筆 28×24cm)、23.「魚(ふぐ)」(墨 32×42cm)、24〜34.「『縮図』エスキース(11点)」(1941年頃 鉛筆・色鉛筆、他 28×24cm)
[版画、挿絵原画、色紙、他]
35.「コラージュ」(大正末 28.5×21.5cm)、36〜41.「木版画−表現派風(6点)」(大正末 13.5×15cm、11.5×17.5cm、12×14cm、12×10cm、14.5×12.5cm、14×16cm)、42.「童画原画」(水彩 24×23cm)、43.「『阿房列車』挿絵原画」(1951年 鉛筆21×18cm)、44.「挿絵原画」(戦後 墨 19.5×15.5cm)、45〜47.「『週刊読売』カット原画」(墨 20×27.5cm、21×18cm、20×30.5cm)、48.「ししとう」(色紙 水彩 27.5×24cm)、49.「母子像」(色紙 水彩 27.5×24cm)、50.「魚」(色紙 水彩 27.5×24cm)、51.「烏」(墨)
[その他]「内田巌デスマスク」、内田巌著書、原稿。

■心強いコレクターの存在と忘れられつつある内田の存在

 その他、会期中にコレクターから「こんな内田作品を所有している!」と展覧会に持ち込まれた。2日目に自ら“青路プチ美術館”を開設する福島誠二さんが、20数点に及ぶという内田巌のコレクションのなかから、「この傾向の作品がないと思って」と、コロー調の風景画「森の径」(4F 板)を持って現れ、以後展示することになった。また、最終日にもコレクター中川隆氏が、「少女像」(6F キャンバス)と「黄衣の女」(20F キャンバス)を会場に持ち込んだ。特に後者は、昭和14年の日動画廊での個展に出品されたもので、コローに影響を受けたという戦前の内田巌のリアリズムのありようを顕著に示すものだった。
 こうして一堂に会した作品は、約50点に及び、内容的にも、内田の美術学校時代の大正末から戦後の全盛期に晩年まで、人物、風景、静物とモティーフの幅広く、あと大作の群像が入れば、とりあえずは、内田の画業の概略は理解できるというものにはなった。
そして、何より熱烈なコレクターの存在を目の当たりにすると、内田巌という画家の存在がしばらく消えないことだろう。と、少しは安心した。
 しかし、画家・内田巌の存在は、昨今の美術史のなかでは消えつつある。勿論、日本の戦後美術史において、その名前を消すことは出来ない。日本美術会の初代書記長、戦後日本の左翼のプロレタリアリアリズムを代表する“赤旗の絵”、「歌声よおこれ」の作者として。また、藤田嗣治に戦犯容疑をかけて、日本から追い出した張本人として、その名が美術書に登場する。が、戦後美術一方の雄としての内田の様々な発言や文章が読まれることはなくなった。またその作品も、美術全集や戦後美術を展望する企画展でも見なくなった。
少なくとも、1960年代までは、様々な美術全集や戦後美術を回顧する展覧会に「風」「歌声よおこれ」「ラ・ぺ(平和)」といった作品が、左翼・民主派を代表する作品として必ずと言っていいほど登場していた。
 しかし、1970年代に入って、内田巌の名前と作品は徐々に戦後美術史のなかから消えていく。それは、戦後の日本美術会やプロレタリアリアリズムが語られなくなるのと軌を一にしていて、かわりに、山下菊二や中村宏らのルポルタージュアートが歴史の表舞台に押し上げられるようになってくる。
 かつて、東京都美術館で開催された戦後日本美術史の検証企画展である〈靉光・松本竣介そして 戦後美術出発〉展(1977年)、〈現代美術の動向1 一九五〇年代-その暗黒と光芒〉展(1981年)でも、内田巌の作品は展示されなかった。以前、私は〈一九五〇年代展〜〉企画担当者だった萬木康博さんに、「なぜ、内田巌や本郷新が入らなかったのか?」と聞くと、彼はこう答えた。
「あくまで、時代を代表する美術作品を選んだのであって、やはり“挿絵”のような作品は選びたくなかった」と。それが実に印象に残っている。
 つまり、「歌声よおこれ」をはじめとする内田巌の戦後作品は、一つの時代の象徴ではあるけれども、時代を象徴する美術作品ではない、ということなのだ。また、各時代における美術の新たなる可能性を問う現代美術において、内田巌のような作品は、“美術・芸術”なる“クウォリティー”に乏しい、というわけだ。
 特に近年、「時代の美術」ではなく、「美術の時代」を問うのだという、美術史家や美術館の指向は、まさにその流れのなかにある。

■戦後民主主義の評価

 今回、私が内田巌の展覧会を企画するに当たり、最も考えたかったのは、内田巌という画家の戦後美術において果たした役割と、なぜ彼が歴史から消え去ろうとしているのかということだった。そこでとりあえず、数は少なくても内田の作品を目の前にし、さらに生前、彼と交流のあった人々や美術関係者から様々な意見を聞く機会を持ちたかったわけだ。
 そんななかから、浮かび上がってきた内田巌像とは、いい意味でも、悪い意味でも、戦後日本の民主主義のあり様を体現し、それを愚直に表現しようとした第一の画家だったということだろう。そして彼は、様々な著作を通じて、戦後の民主主義的美術観を実に平明に論じた代表的啓蒙者の一人だった。今回でも、「子供のころ、『ミレー』(ポプラ社刊)の少年少女向けの評伝や、学生時代に『ミレーとコロー』(岩波新書)を読んで、その著者として、内田巌という名前が記憶に残っている」と、懐かしく展示に見入る観客が、実に多かった。
 ある意味、戦後すぐの代表作である「風」(1946年)にしても、その後の「歌声よおこれ」(1948年)、「ラ・ぺ(平和)」にしても、そこには、戦後民主主義に対する疑いのない、言ってみればあまりにも安直な信頼と革新に満ちた表現となっている。 しかし、実際、アメリカのマッカーサー、GHQによってもたらされた戦後民主主義なるものは、戦後間もなくその理想は現実においやられ、1950年の朝鮮戦争勃発によって、まったくの幻想と化していく。しかし、日本自体は、その朝鮮戦争によって、経済的復興の足がかりを築くことになるのだ。
 戦後の日本が、民主主義と絶対的平和主義から、高度経済成長へとむかい、戦後民主主義というものに、様々な欺瞞が透けて見えようとするなかで、内田が描き、掲げた世界にも、疑問が投げかけられるようにもなった。そこに、内田の思想的希薄さが浮かび上がらざるを得ないということにもなる。
 かつて板橋区立美術館で、戦前戦後の日本の前衛美術の展覧会を数々企画した尾崎眞人さん(現・平塚市美術館学芸員)は、「戦後民主主義は幻想だったということが、明らかになった今、その戦後民主主義を描いた内田巌が忘れられるのも当然だ」と言った。
 確かに、それはそうなのだ。考えてみれば、まさに1970年代に入り、ベトナム戦争によって、アメリカの経済的優位が崩れ、日本が経済他国になるなかで、戦後民主主義というものは、まさに“昔の夢”“幻想”となっていったのかもしれない。その戦後民主主義なるものへの日本社会の意識の変化とともに、内田巌の評価も変わっていったとも言える。
 そしてそれは、各世代による戦後という時代を生きてきた体験と実感にもよるだろう。今回の展覧会に訪れた、現在、岡本太郎美術館館長の村田慶之輔さんがこういったことも印象的だった。
 「僕たちの世代というのは、内田さんや本郷さんの全盛期を目の当たりにしているだけ、あの思想的な姿勢に対して、反感を覚えたところもあったし抵抗もあった。しかし、そんな内田さんのような存在が、いまでも心の奥底に何か気になるものとして残っている」と。
 村田さんは、昭和5年(1930)生まれで、青春時代は、まさに内田巌が戦後を代表する文化人として華やかなりし頃だった。そんな内田をリアルタイムに知っている人々にとっては、その後の時代の展開から顧みて、内田らが旗を振った戦後の民主主義にも数々の問題があり、結局は幻影に終わったとは分かっていても、それに対する希望と期待はどこかに残って消えないということだ。そういう人々は、今日でも未だ数多いことだろう。
 美術も時代とともにある。確かに、作品としての完成度や質というのは、時代を経ても変わらないかもしれない。しかし、その作品と刻々と移りゆく時代、社会との距離感が評価を変えていく。戦後美術における内田巌の存在、まさにそのことを如実に示していると言っていい。
 今回、そんな様々な内田巌観を含めて、彼の作品そのものから画業を垣間見てなにより感じたのは、何より、内田巌という人物は、本質的に決して政治的でも、イデオロギー的でもなかったということだ。画家としても、美術の理論家としても、非常にオーソドックスで、日本人的な温和な情緒と繊細な感性の持ち主。そんな彼は、激動する時代の波に立ち向かい、翻弄された姿は、いま見れば問題が多いのかもしれない。ただ、それは一方では、戦後の日本人のどうしようもない現実であったのかもしれない。だからこそ、“内田巌”という存在には、今日も賛否両論が付きまとうのだ。
 そして、様々な意味で、戦後日本の最大の転換期を迎えている今日、戦後の内田巌と彼が描いた戦後民主主義というものが、一体何だったのか。それを問い直すことは、美術史や美術批評の面でも、一つの課題であるに違いない。
 ところで、来年には、岡山の新見美術館と神戸市立小磯記念美術館で内田巌を軸に、新制作の同士である猪熊弦一郎と小磯良平を交えた企画展が開催される。そこで、再び、戦後の民主主義とは何だったかということが、内田とその周辺の仕事を通して問われることになるだろう。

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