今、なぜ『てんぴょう』か……


文●編集部
(創刊特集)
◆何処へ行った、ニッポン人の美意識は……

 ポピュラーアート、あるいはエコロジーアートとでも言うのだろうか。街頭で、若い女性の完全インプットされたかのようなセールストークに誘われ、多くの一般市民がリトグラフやシルクスクリーンを購入している。それも高額のローンを組んでだという。これほど絵画の売れない時代にだ……。
 美術家たちをスターとして祭り上げ、大々的なプロモーションを繰り返す。効率的に商品生産する方法を考案し、大量に売りさばく販売戦略を構築した仕掛人たちは、確かにずば抜けたビジネスセンスを持っていると言えるだろう。

 しかし、そうして売られていった作品を『高級壁紙』と表現する者もいる。実に言い得て妙である。高級壁紙を部屋に飾り、ローンに苦しむ人々の美意識とはいったいどういうものなのか。
 あるイギリス人画家がこんなことを言っていた。「先日、東京の渋谷を訪れたときのこと。『あれ、今日はハロウィーンか……?』そう思ったんです。だって、多くの少女たちが仮装して歩いているじゃないですか。でも、それが仮装ではないということを友人の日本人から聞いた時には、背筋が寒くなる思いがしました」

 最初、彼の言わんとすることが見えてこず、しばらく黙って話を聞いていたのだが、やがて理解したときには、なぜか日本人として我がコトのような恥ずかしさと焦りさえ感じてしまった。彼が目にしたものは、斑に脱色して痛みきった髪、焼きすぎたサンマにも劣らぬほど黒く焼いた肌、真珠の輝きを放つと広告される白い口紅を塗った唇、目元にはキラキラと光る粉をまぶしたり、涙を型取ったシールを貼って渋谷を闊歩する、夏休みの女子高生たちだったのだ。

 彼女たちに罪はない。あたかもそれがトレンドの最先端であるかのように煽るマスコミ……。当の仕掛人たちは少女たちの姿を満足げに眺めながら、その一方で『山姥ギャル』と揶揄しているのだ。「だって、渋谷では最先端のカッコしなきゃ、ダサイと思われるもん……」サラリと言ってのける少女たちの美意識とはいったいどういうものなのか。

 今、モノの豊かさが頂点に達するのと同時に、日本人の美意識も頂点を目指しているのだろうか。それとも、既に熟し、あとは腐敗へと向かっているのだろうか。
 まもなく迎える新世紀。21世紀から20世紀の美意識というものを振り返ってみたときに、果たしてそれはどのように映るのだろう……。笑い草にならないことを願わずにいられない。

◆本流はなくなったのか?

 話を美術に戻そう。
 文学、音楽、芸能、スポーツなどと同様、美術界も例に漏れず、今、本流がなくなっている。あるいは、具象絵画、抽象絵画、インスタレーション、映像アートなど、時代の移行とともに表現方法が多様化し、美術の本流がなくなったのではなく、見失ってしまったのかもしれない。団体展やコンクールの求心力や権威が失われて久しい。また、巨匠や大家と呼ばれるに相応しいスターが不在の時代でもある。

 かつては、日展や二科展などの公募展が、才能を吸収し、また輩出する器の役割を果たしていた。また、そこで賞を取ることが美術家として最高の栄誉でもあった。
 日展系のある公募団体が、『明日の○○会展』と銘打ち、若く、有望視される画家を集めて企画したという小品展を観る機会があった。会場を出るときには、『下手』という言葉の意味を痛感したような強いショックを隠し切れなかった。同行者も、「なぜ、これほどまでに貧弱なんだ」と肩を落とす。技術的な『下手』もさることながら、発想の乏しさ、メンタリティーの低さを如実に見せつけられる結果となった。

 当編集部で実施した、関東の美術系大学で絵画を学ぶ学生を対象にしたアンケートでも、「公募団体展に出品したいか?」という問いにキチンと答えた学生はたったの30人、そしてその30人中、「出品したい」と答えた学生は1人もいなかった。
 公募団体の権威が失われてからというもの、コンクールで受賞することが画家にとっては大きな目標のひとつだったのだ。しかし、新人具象画家の登竜門とも言われた『安井賞』は残念ながら廃止になった。現存のコンクールでは、受賞作家が大きく取り上げられて世に名を馳せることもなく忘れ去られていく。

器の小ささを繕う小手先の器用さ

 春、上野の美術館で、いくつかの美術大学の卒業制作展を観た。美術館へと向かう道、もはや現役学生たちの感性とはジェネレーションのギャップがありすぎて、正直なところ付いて行けないかもしれないとさえ思っていた。また、逆にそうあることをどこかで期待してもいた。しかし、意外なことに結果はそうではなかった。アカデミックな画風が多く、予想以上に上手いことに感心させられたのだ。しかし、『上手さ』はあっても残念ながら『個性』を感じることができなかった。
 『ヘンに大人になった作品』……葛藤に苦しむことなく、そつなく仕上げられているように見える。もはや、彼らの世代では、口角泡を飛ばしながら夜を徹して芸術や人生を論じ合うなどという不器用な熱さは存在しないのだろう。
 若いゆえの物足りなさではなく、完成度が高いゆえの物足りなさ……。

 では、彼らの学び舎である今の美術系大学に問題点はないのだろうか。
 芸大・美大の受験のために行うデッサンは、画家としての才能を摘み取ってしまうように思えてならない。上手く描こうと躍起になるが、それがかえって個性をなくし、どの学生もが似たような作風になってしまう。加えて、何十倍という競争率の難関を突破した達成感のみで、自らの実力に自惚れ、満足してしまう学生も少なくないのではないだろうか。

 画家にとって、美術作家にとって、デッサンとはいったい何だろう。……必須受験科目のひとつで終わらせてしまってよいのか。多くの美術系学生たちが勘違いをしている。
そういった学生たちが向かう先は……、自己満足、マスターベーション、フラストレーションからの解放。
 勘違いをしながら、しかし、小手先は器用な、規格どおりの自称『アーティスト』が毎年1万人以上掃き出されて行く。

 アート。……この曖昧で、便利で、どこか卑怯な単語。美術に絞り、例えばその中でも更に平面に絞ったとしよう。それでも、絵画、イラストレーション、アニメーション、グラフィックデザイン、写真など、どれもがこの単語の中に属してしまえるのだ。
 正面から画家と名乗る若い才能に出会え難い時代。アーティストと名乗っておけば逃げ道はいくらでもある時代。だからアートは解らない。誰もアートを解らない。

 逃げるな、画家の卵たち……!
 たった1本の線が、人の心を虜にする。ロダンのデッサンに見る無限に伸びる線、ピカソの線に見る溢れんばかりの豊かさ……。1本の線に命を賭けるような、そんな画家はもう出てこないのだろうか。
 安井曾太郎、梅原龍三郎……、品格があり、器の大きさを感じさせる、観る者を感動で震えさせてくれる画家はもう現れないのだろうか。
 過去の大家たちの画風が甦ることに期待などしていない。しかし、今を生き、現代の空気を吸った画家の、現代にしかない作品の中にも、1本の線で人の心を掴むような作品が出てきておかしくはないはずだ。
 モノも情報も豊かな現代、創造の種となり得る要素には事欠かない。要は、種を育てる側の画家、美術家たちの心持ちと器なのだ。

◆作品にも負けない美術評論

 「美術評論はつまらない」  画家から、画廊から、そして美術ファンからの共通の声だ。また、様々な立場で文章を読み慣れた、それでいて日頃美術評論に接する機会は少ないという人々に、既存するいくつかの美術評論文を見せてみた。やはり一様に、「つまらない」。中には、「人を引き込もうとしない文章。冷静沈着で高いところから人を見下したような物言い。この執筆者たちは美術作品を見て、胸が震え、涙を流して感動するといった経験をもっているのだろうか。読み手側が何を欲しているのかを少しでも考えて書いているのだろうか」辛辣なまでに言い放つ者もいた。

 流行の現代美術には、正直、ワケの解らないものが多い。それらには、更に抽象的な言葉や、まわりくどい表現を並べ立てた評論が付録のように付いている。作品のツボを見抜けず、ただ一方的に自分の文章に酔いしれているような滑稽な空回り感……。いさぎよく、ワケの解らなさを指摘する方がよほど気持ちよく、また、おもしろくもある。

 評論文。そもそもおもしろおかしい性質のものではない。しかし、そう開き直っていてよいものか……。本当におもしろ味の無い美術評論ばかりがまかり通っているうちに、おもしろ味だけでなく、存在する意味まで無いものになりつつあるような気がしてならない。画集や雑誌の作品評は年々『飾りもの』になってしまっているのだ。
 
 作家や作品のレベルが低いからそれを評論する文もつまらない……。そんな声もある。果たしてそうだろうか。つまらない作品にはつまらないと言えばよい。つまらないものを無理に褒めようとすると、歯切れの悪い、読んで不快な文になる。必ずしも、取り上げる作家や作品によって評論家や評論文の善し悪しが決まるものではない。

 もちろん、既存の美術評論の中には読む者を唸らせるほど優れた文章もある。まっすぐ、的確に作品のツボを捉えた美術評論に出会うと、作品から受ける感動に負けないほど、読む者の心を熱くしてくれる。そういった評論が増え、また、真剣に読まれ始めると、駄文を書く美術評論家は生き残れない。むしろ、そうならなければ日本の美術界に未来はないだろう。
 作品とともに、美術評論はなくてはならないものである。そしてそれらはまた、相互の質を高め合う関係でなければ意味のないものでもある。

◆画廊の敷居はなぜ高い?

 「胡散臭いオヤジがジロリと客を見るような画廊には入る気がしない」「中に入って、お茶の一杯でも出されようものなら、悪徳商法で高額の絵を売りつけられるのではないかと、つい警戒してしまう」……絵を観ることが好きで、画廊に入りたいけれど入れないという経験を何度もしてきたと言う青年の言葉である。
 勇気を出して、画廊の敷居を跨いではみたが、絵の値段が解らない。「安ければ買って部屋に飾りたい。でも、おそらくは手の出せない値段なのだろう……」気に入った絵の掛けてある壁を何度も振り返りながら、再び敷居を跨いで出ていく。しかし、実際は部屋に持ち帰れないほどの値段ではなかったりする。

 もちろん、画廊にも様々な形態がある。中には、一見客は相手にしないというシステムをとる画廊もあるわけだから、すべてをひと括りにして批判することはできないが、なぜ、画廊という空間は人に声をかけづらく、解りにくく、落ち着けない、妙な雰囲気を放つのだろう。
   全国には、2千とも3千ともいわれる数の画廊があり、そこでは営々として優れた作家を発掘するための展覧会が開かれている。
 画廊が文化の担い手のひとつであることは間違いない。しかし一方で、バブルの時代に多くの人々の意識に浸透してしまった画廊や画商のイメージというのはかなりダーティーであることも事実だ。

 美術ファンや絵画コレクターらの足は画廊から遠のいている。画廊側も低迷打開の策を探し続けて試行錯誤してはいるものの、糸口はなかなか見出せない。更には、若い世代の作家たちの中に、既存の画廊で発表することが効果的とはいえない表現手法の作品を生み出す者たちが増えており、客でなく、発表する側の画廊離れも深刻である。

 美術系学生たちを筆頭に、動機と意気込みはともかく、美術作家の底辺は大きく広がっている。彼らの創作に注がれるエネルギーは膨大で、そのエネルギーの受け皿になってやれるのは、やはり画廊(ギャラリーも同義)でなければならないと本誌は考える。美術の動きと時代の欲するものに即した、今までの画廊の枠にとらわれない企画や運営のカタチが生まれてくれば、日本の美術シーンも大きく勢いづくはずである。

 インターネットを使ったアートビジネスや画廊からの情報発信は、まだまだ本格的といえるものがない。また、現時点ではさほど効果を上げているという話も聞かない。しかし、美術業界が次の世代に向けて準備を進めるべき重要な分野であることは確かだ。

 また、最近は複数の画廊による共同企画展も珍しくなくなってきたが、更に次の企画、あるいはムーブメントが待ち望まれている。より多くの画廊が、各々の個性を生かしながら連携し合う。また、時には美術館と、あるいはメディアと連携する。自らが情報を発信するメディアを持つのもいいだろう。とにかくダイナミックな動きが出てくることが期待される。そういった新しい動きこそが、同時に、画廊という空間独特の閉鎖的イメージを打ち砕き、高い敷居を低くする第一歩にもつながるのだろう。

 いつでも、ワクワクしながら訪ねることができる場所。おもしろいことを起こすきっかけが発見できる場所。それが本来の画廊の姿であるはずだ。

◆進化か変化か…

 美術を表現する媒体がどんどん多様化している。絵の具、ペン、鉛筆、パステル、紙、キャンバスなどを指した『画材』という言葉は既に化石化しつつあり、平面から立体へ、そして立体から空間へ……。絵画だけをとっても、もはや壁に掛けられることだけが作品の在り方ではなくなってきているのだ。

 では、表現媒体の多様化に伴い、発表の場はそれらを受け入れられるだけの間口を広げているだろうか。例えばビデオアート……。ガランとした画廊の片隅に小さなテレビモニターが設置され、作品が静々と上映されている。表現する側はそれでよいのかもしれない。しかし、おそらく観る者の多くは、自分は次に左右どちらの足を前に出せばよいのかが判らず悩み込んでしまうような、居心地の悪さを感じているに違いない。これまでの画廊や美術館という空間では、発表することの幅にどうしても限界があるのだ。

 新しい媒体の上で表現を試みる作家たちを育てるステージ。それらはまだまだ発展途上という他にない。この辺りに、美術分野におけるニュービジネスの可能性が眠っているような気がする。可能性と困難が同居した21世紀の美術界の大きな命題である。

 ひとつの作品を制作する際に、プロジェクトという単位で動くケースは、今に始まったことではない。しかし、美術という概念が激しく変わりゆく現代、これは進化なのか、あるいは単なる変化なのか。作家はプロデューサーであり、ディレクターであって、制作者にはなり得ないタイプの美術が台頭し始めている。なにも、「古い」という嘲笑を買いながらジャンルの壁を守ろうとまでは思わない。ただ、『画材』を手に、表現の技を磨いていたタイプの美術とは、ひと括りにできないような気がする。ひと括りで『美術』と言ってしまうほうに無理があるのではないか。同じ枠の中で観ようとするから「古い」「新しい」という不毛の押し問答になるのだ。

◆何をもって美術作家たり得る

 美術に限ったことではないが、新しいこと=よいこと、古いこと=よくないこと……、あたかもそうであるかのように多くのメディアが煽る。それに乗せられてかどうか、作家たちも目新しさを追い求める。確かにそのことが作家の創造力を喚起することでもあり、時代の要請でもあるのだろう。しかし、どうも素直に頷くことができないのはなぜなのか……。

 「新しいとされる現代美術の多くは、まるで遊園地のお化け屋敷だ」ある者はこう言う。気をてらった目新しさのみを追い求め、とうてい美しいとは思えない。かといって足が竦むような凄み、考え込まされるような問題の投げかけも無い。ただただ、作家に「ご苦労様でした」と、ねぎらいの言葉をかけたくなるような現代美術は確かに多い。
 時間的な観点のみでいうと、古さの象徴でもあるような長谷川等伯の『松林図屏風』。実際、我々の目には今もって驚きともいえる新鮮さを与える。時代を超える感動があり、新しさを教えてくれるのだ。すなわち、流行や時代性、また表現媒体などは付随するものであって、美術の本質として捉えるべきではない。媒体が何であるかは決して重要な問題ではないのだ。

 では、いったい何をもって美術作家たり得るのか。
 ただ、美術の本質を捉えているかどうかの一点に尽きるだろう。例えばグラフィックデザイン。現場にコンピュータが参入した当時は、その機械を使いこなせるかどうかがデザイナーの価値であると言ってもよかった。しかし、多くの人々がコンピュータを持ち、様々なソフトが普及すると、簡単なポスターやパンフレットならば誰にでも作れるようになった。グラフィックデザイナーとして生き残るためには、コンピュータの操作ができることではなく、コンセプトを理解する能力、構想を練る能力、それらを料理するセンス、そして人間性そのものが問われる。
 本来、そうであったはずなのだが、付随する部分が前面に出すぎていたため、大切な本質を見失っていたのだろう。

◆今、なぜ『てんぴょう』か

 見失っていた本質……。
 作家の技術、センス、またそれらを磨くための努力を怠らないことは当然の前提条件である。更に加えて作家本人に歴史観、宇宙観、人間観などの哲学があるかどうか。言い換えれば、人間とは何か、平和とは、喜びとは、苦しみとは、生きるとは、そして美とは……。こういった命題に立ち向かいながら、人の琴線に触れるものを創り上げることこそが美術の本質であり本流ではないだろうか。
 それらが沸々と沸き出て、創らずにはいられない、描かずにはいられない……。そんな心の発露があるか。それがなくては美術、いや芸術は単なる自分独りのための慰めに過ぎない。
 それはおそらく、芸術家として生きるために大地に根ざす根であろう。観賞者の目という風雪に耐えて青々とした葉を繁らせ、長年にわたって人々にやすらぎや感動を与え続ける大樹としての。

 美術作家は、作品を発表するために自らの全精力を注ぎながら創作を続ける。百年、千年の後をも見つめながら……。しかし、いざ、彼らの発表の場には、限られた来場者しか訪れず、正当な評価を受けることも極めて少ない。しかも、個展などの発表の場を見逃すと、再びその作品に出会える機会は皆無に等しいのだ。

 有能な作家の発表を、せめて誌面で一覧したい。……そう考え、論じ合いながらこの雑誌は創刊される。
 創作という、最も人間らしい行為や、人間そのものの生きざまを紹介する雑誌『てんぴょう』。なんとも楽しく誇らしい仕事が始まろうとしている。
 波風を立てないことが美しいとされてきた日本の美意識だが、すべてにおいてそうであるとは限らない。いい意味で、誰かが一石を投じてみなければ何も始まらない場合もある。混沌とする今の日本美術に、期待を込めて小さな石を放ってみたい。
 波紋がここから広がって、間もなく訪れようとしている世紀の新しいうねりとなるように……


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